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客観的真実はここにあるー フリート・フォクシーズが約6年ぶりに放つ崩壊と再生のテーゼ

28 June 2017 | By Shino Okamura

 ロビン・ペックノールドは決してポップ・ミュージックの殉教者などではない。新作からの先行曲としていち早く発表されていた「Third Of May – Odaigahara」を繰り返し耳に入れて、それを噛み砕くかのように咀嚼しながら、何度もそんなことを考えていた。“夜が戦いを終わらせても、歌は残っていた”。そんなフレーズに一体何度涙を堪えたことだろう……などという人は、もしかすると筆者だけではないかもしれないが、“翼にしがみつけ、翼にしがみつけ――”という一節で終わるこの曲ーー前作『ヘルプレスネス・ブルース』に伴ったツアーの最終地=日本の大台ケ原をモチーフにしていることは偶然ではあるまいーーが、フリート・フォクシーズというバンドと、リーダーのロビン・ペックノールドを、砕けて、砕けて、砕けて、再生して、再生して、再生してラウンドし続けるサヴァイヴァーとして高みに届けていることはまず間違いないだろう。そして、それは同時に、徒花となるリスクを恐れ楽しみながらも、そこに抗うことに快感を覚えながらプログレスする素晴らしくシンプルな音楽的求道者たちであることも告げている。このバンドは強い。猛烈に強く眩しいほどに逞しい。

 スコセッシ監督によって映画化された遠藤周作の『沈黙』がそうであるように、6年ぶりとなるフリート・フォクシーズのニュー・アルバム『クラック-アップ』は、ある種の宗教性と信仰心、それに対峙する大衆性と相反するヴァリエテ、そこからリバースしていく強靭な精神性を訴える彼らのテーゼそのものに他ならない。メンバーの脱退、長きに渡る活動休止期間、それぞれのソロ・ワークスなど、背後に横たわったそんなどのバンドにも起こり得るプロセスの多くは、このバンドの足元を揺るがせることは当然ながらなかった。ソングライティングやアンサンブルにおけるブレなども何一つない。誰もが知るポップスの王道から、それらの陰日なたとなってきた隠された至宝のような作品、クラシック音楽、モロッコやエチオピアの音楽まで、彼らが今作制作前後に手を伸ばした音楽の一つ一つがフリート・フォクシーズというバンドの幹となり枝となり花となり葉脈となっているという事実には、音楽を求め続けることの混じり気のない清らかな姿勢があるのみだ。

 いくつもの音楽遺産をリイシューさせ、現代音楽やアメリカーナのような作品をリリースすることで歴史をアップデイトさせてきたノンサッチという米国の良心とも言える至高のレーベルからこの新作が発表されたのも、そういう意味では運命かもしれない。さあ、轟かせ、打ち鳴らせ。歌、歌、歌、メロディ、メロディ、メロディ、コーラス、コーラス、コーラス、リズム、リズム、リズム。砕けよ、そして再生せよ。(取材/文:岡村詩野)

Interview with Robin Pecknold

――まず、アメリカに暮らしている人にとっては、昨日、今日で最も大きな話題であろうこのニュースから意見を聞かせてください。昨年の大統領選ではあなたも含めた多くのミュージシャンたちがクリントン…もとい民主党支持でしたが残念な結果となり、ついにトランプが大統領に就任して100日が経過しました。ペンシルバニアで支持者を集めた盛大なパーティーも催されましたが、トランプが政権を握ってからのこの数ヶ月、支持率が低下してきている中ではありますが、アメリカ国民であるあなたが肌で実際に感じる最も大きな変化、は具体的にどういうところにありますか?

ロビン・ペックノールド(以下R):実際感じる変化は人によって違うと思う。恐怖に怯える人もいれば、先行きに不安を感じてる人もいる。中には国外退去を強いられた人も中にはいる。僕にとっては、とにかく「恥ずかしい」と感じるのと、僕自身が大事にしているアメリカの価値観をトランプは体現していない、ということ。彼のことはアメリカ人らしいとは思わない。この状況が何を意味しているのかについてもたくさん熟考した。僕の意見を言わせてもらうと、彼は僕たちの評判に傷をつけたと思うと同時に、自分が公約として掲げてきたことを達成できていない、リーダーとしてはほとんど機能していないことにはホッとしている。願うのは、このまま彼が何も達成しないでいてくれることで、ゆくゆくは弾劾されることだね。

――アメリカのみならず英国やヨーロッパも同じように危機的な状況ですが、そうした傾向が今作の制作の動機に結びついているといえますか?

R:選挙の段階でアルバムはかなり仕上がっていたんだ。ただ、選挙の結果を受けて、歌詞の内容を少し変えたのは確かだよ。あと、タイトルがより腑に落ちた、というのか……『Crack-Up』というタイトルがあの選挙の後だからこそ、より広い意味合いを持つようになったとは思ったね。

――ええ、今作のタイトルの陰には何やらそうした現在の社会状況に対する示唆的なメッセージも感じます。もともとはスコット・フィッツジェラルドの同名エッセイからそのタイトルをとったということですが、アルバム最後に納められたそのタイトル曲のクライマックスには「All Things Change」という歌詞も出てきますし、最後は立ち去るような足音のようなエンディングになっていますね。そもそも今回のアルバム制作の発端は、やはりこのタイトルに現れているような思惑だったのでしょうか。制作の最初のきっかけを教えてください。

R:ああ、あのエッセイを読んだとき、フィッツジェラルドが言わんとしている幾つかの部分に共感できたんだ。自分が精神的に少し参っていると感じる部分だったりとか、音楽に気持ちが向かなくて、この先音楽とどう向き合って行くか確信が持てなかった。この世界から自分が後ずさりしていると感じていて、彼もそうだった。そこに共鳴した。ただ、今作を作るにあたり、そういう気持ちに終始止まっているものにはしたくなかった。そういうものを示唆したり、触れたりしながらも、そこを切り抜ける道を示したり、あるいは乗り越える過程を描きたかったんだ。フィッツジェラルドの場合、彼は作品の終わりでお手上げだと生きることを諦めてしまっているように思える。でもこのアルバムの終わり方は、むしろ両手を広げて、生きることを受け入れている。生きることから身を引く代わりにね」

――そのエッセイはいつ読んだのですか?

R:確か2013年頃だったと思う。2012年だったかもしれないな。

――ということは、昨年4月、あなたはSoundCloudで「Swimming」という曲をソロ名義で発表しています。この段階では、既にフィッツジェラルドのそのエッセイへの共感と、そこからの脱却を意識されていたということですね。SoundCloudで発表したあのソロ曲は、歌のない、そしてフォーキーではなくかなりリバーヴがかけられたサウンドでしたが、それより前にはドゥーワップ・グループ、The Five Keysのカヴァー「Out of Sight, Out of Mind」も同様にウェブで発表していました。これらのソロ名義での曲はどういう位置付けとしてオープンにしていたのでしょうか?(現在はどちらも削除されています)

R:「Swimming」に関しては、なんらかの形で今作に入れようと考えていた曲なんだ。実際(アルバムの)レコーディングで、あのギター・パートをみんなでいろいろ試してみたんだけど、他の曲と違い過ぎてたんで諦めたよ。あとThe Five Keysのカヴァーに関しては、アルバムに収録した幾つかの曲の構成を決める上で、あの曲の構成(アレンジ)を参考にさせてもらったんだ。例えばタイトル曲の「Crack-up」なんかは、あのカヴァーに通じるものがあると思う。今作の完成に行き着くまでの工程を少し見せた、という感じだね。

――ということは、昨年のあの時点では既にフリート・フォクシーズとして既に今作に取り掛かっていたということですか。

R:ああ、曲はずっと書いていたよ。レコーディングを始めたのは去年の9月だけどね。

――そもそも2年ほど前には再びジョアンナ・ニューサムのツアーでオープニング・アクトをつとめていて、ソロとしての新曲を多数披露しています。曲はずっと書いていたということですが、この時にはあなたはソロに転じるのではないか、ソロとしてアルバムを出すのではないかという憶測も飛び交っていました。実際にあの頃は、どういうプランでいたのでしょうか? フリート・フォクシーズとしての活動は視野に入れていましたか? それともソロになるつもりだったのでしょうか?

R:ジョアンナにあのツアーをやってくれと頼まれた時、もちろん「イエス」と返事をしたわけだけど、そのツアーを終えたら直ぐにフリート・フォクシーズのアルバムのレコーディングに入ろうと決めていた。あのツアーの準備もしなきゃいけなかったけど、終わったらそのまま今作のレコーディングに取り掛かるつもりだったんだ。

――バンドをやめるつもりはなかったということですね。ただ、2012年1月に行われたフリート・フォクシーズの来日公演は感動的なまでに素晴らしい内容でしたが、そのワールド・ツアー最終日を最後にバンドとしては活動休止状態に入り、その後、あなたはニューヨークで大学に通い始めたというニュースが伝わってきていました。実際にコロンビア大学の大学院で音楽と文学を専攻したとのことですが、どうして大学に入ろうと思ったのですか。

R:実はあの時点で、健康状態もあまり良くなかったんだ。あのツアーが終わった後は、治療が必要だったくらいにね。健康を取り戻すまでには時間も必要だった。当時は(ツアーであっちこっち飛び回ることもなく)一つの場所に定住していて、そろそろまた音楽を作ろうかと思っていたら、たまたまその頃出会った人たちというのはアート・スクールではなく、普通の大学に行って、文学や人類学を勉強してきた人たちだった。それまで僕が思い描いていた大学に通うイメージというのは、弁護士になるとかビジネスを勉強するために行く、というもので、そうじゃない大学の通い方というのもあるのだと知ったんだ。そして新作アルバムに向けて前に進むという意味で、大学に通って、授業を受けることで、新作を作るのに役立ちそうなものを吸収するのもいいんじゃないかと思ったってわけだよ。新しい経験もして、慣れない環境にあえて身を投じることで成長できれば、とも思ったんだ。

――ただ、2012年1月の来日公演で終了したそのツアーの後、個人でお芝居の音楽を制作したり、ソロでライヴをやったり、アーケイド・ファイアの映画『Festi』に出演したりしていましたが、あなた自身の活動もそうした断片的なもので、その後の活動を予見できるようなものではありませんでした。具体的にフリート・フォクシーズとして再びやろうと思い立ったのは何がきっかけだったのでしょうか。それがいつ頃訪れた決意だったのかも教えてください。

R:フリート・フォクシーズはずっとまたやるつもりだった。二度とやらないという考えは一切なかったよ。ただ、実際に作品に取り掛かるまでには長い時間がかかってしまったというだけの話なんだ。

――メンバーのクリスチャン・ワーゴとケイシー・ウェスコットは新バンド=Poor Moonとしてアルバムを発表したりしましたし、何と言ってもツアーを最後に脱退したジョシュ・ティルマンはファーザー・ジョン・ミスティとして本格的に活動を開始していきました。こうした仲間の別行動があなたに何か刺激を与えた部分もありましたか?

R:それは特になかったかな。ケイシーとクリスチャンがそうやって活動するのはいいことだと思う。クリスチャンは凄く才能のあるソングライターだ。他のメンバーもそうだ。スカイラーも4作のソロ・アルバムを出して、モーガンも多くの作品に参加している。僕としては他のプロジェクトも積極的にやってる人たちと一緒にやるのは好きだけど、そこから刺激を貰ったというわけではないよ。でも、バンドはずっと続けていきたいという意識はあった。本当、その起動タイミングが去年だったってだけなんだ。

――今作のジャケットは日本人写真家・濱谷浩(ハマヤヒロシ)の写真が使われています。ブリューゲルを用いたファースト、シアトルの画家のToby Liebowitzを起用したセカンドと、ジャケットのアートワークは常にあなた方の作品で大きな意味を持っていますが、今作のカヴァーの写真家、濱谷浩は報道系のカメラマンであり、日本の地方、田舎の厳しい風景を切り取ることで知られていました。『American America』というタイトルの作品集もあるのですが、あなたはこの人の存在をどこで知ったのでしょうか? そしてなぜ今作で彼の作品、それもこの海と崖の写真を選んだのですか?

R:彼の作品との出会いは、ニューヨークの《Strand Book Store》でだった。写真集のセクションを見てる時に彼の風景写真の写真集を見つけて手に取ったんだ。それを探していたわけではなく、たまたま見つけたんだ。でも、ジャケットに使った写真は、それが絵画なのか写真なのかわからないところが気に入ってね。まるで絵画のように色彩が豊かで、質感も引き込まれるものがある。その“本物”か“偽物”かはっきりしない感覚というのは、アルバム全体に通じる発想だと思っているんだ。“自分が見ているものと、実際のものとの違い”とか、“人によって同じものに対する感じ方が違う”とか。だからこの写真も“本物”か“偽物”かはっきりしないところが気に入っているよ。アルバムのレコーディング中は、彼の写真をたくさんスタジオの中に飾ったんだ。自分たちの家っぽい雰囲気をスタジオに持たせるためにね。だから彼の作品には今回のレコーディングと深いつながりを感じるんだ。

――もともと日本というのはあなたにとって大きなインスピレーションですが、先行曲である「Third Of May/Odaigahara」は、日本の奈良県、吉野熊野にある大台ケ原山のことを歌ったものだそうですね。なぜこの山をモチーフにしたのでしょうか。

R:これまでフリート・フォクシーズのアルバムには必ず山の名前をタイトルに使った曲が入っていた、というのと、これまでのアルバムにはインストの曲が入っていた。その二つの伝統を続けたかったというのがまずあった。それと、僕としては「Third Of May」は日本で完結しているんだ。君がさっき言ってた前回のツアーが日本のあのショウで終わりを迎えたようにね。ツアーの終わりを迎えた場所にちなんで曲を終わらせたかったっていうか。だから大台ケ原という僕にとっては非常に強い印象を持った名前に共感するものがあったんだ。ちなみに、実際に大台ケ原にはまだ訪ねたことがないんだ。今度日本に行く時はぜひ訪ねてみたいね。実はこれもまたハマヤの作品の中で名前を見つけてね、その印象が強かったものだからタイトルにもつけたってわけ。

――そんなモチーフで描かれたこの曲は、貴方とスカイラーとが一度は疎遠になりながらも友情を取り戻したことを下地にもしているそうですね。

R:ああ、歌詞はスカイラーとのことだったり、僕の人生におけるほかの人との関係を元に書いたよ。音楽に関しては、最初の3分はかなりワクワクして、軽快で、その後続く3分は緊張感があり、でも希望の兆しもある。そして最後の3分は、すっかり打ちのめされ、でも凄く美しい、という。それが僕にとってのフリート・フォクシーズとしてツアーをした経験の記憶だ。そういう弧を辿った。だからこの曲の音楽的な部分はその弧に沿っていて、歌詞は僕とスカイラーがもとになっているんだ。

――私は、今作を聴いて、そしてジャケットのアートワークを見て、スコセッシによって映画化された遠藤周作の『沈黙』を少し思い出しました。映画『沈黙』はご覧になりましたか? 

R:ああ、見たよ。原作は僕が最も好きな小説の一つさ。

"創造における精神性は、信仰心に似た超自然的なものであるように僕は感じるんだ。この数年間は、ひたすら客観的真実を探していた。そうやって客観的真実を求める作業もまた何か信仰心に近いものがあるように思う"

――あの作品は日本におけるかつてのキリシタン弾圧を素材に信仰と神の是非を描いた、20世紀のキリスト教文学とも言われている小説がベースですが、あなたはフリート・フォクシーズの過去2作品…わけてもセカンドでキリスト教思想をメタファーにしていました。そこには懐疑も敬虔も含まれていたと思いますが、今回、伝統的にキリスト教思想ではない日本を舞台に日本人作家によって描かれた『沈黙』が映画化され公開された後に、その『沈黙』を彷彿とさえさせるハマヤの写真をあしらい、何か啓示的な所縁もあるような大台ケ原山を歌にしてみせる…というのはとても象徴的なようにも感じます。スコセッシ監督が長い構想期間を設けてこの素材に取り組んだ姿勢と重なるようにも思えるのですが、日本、キリスト教思想、信仰心などをキーワードにして、あなたなりの今作の位置づけをしてもらえますか?

R:いい質問だ。原作の大ファンとしては、映画化は期待に見合うものだったと思う。特に「踏み絵」を取り上げるシーンは良く出来ていたと思うし、背教も上手く描かれていたと思う。俳優陣の演技も素晴らしかった。僕自身における信仰心という点となると、僕自身は「不可知論者」だと自分で思っているから、特定の宗教を信仰しているわけではない。むしろ、信仰に近い感情を音楽或いは創造することに対して持っている。創造における精神性は、信仰心に似た超自然的なものであるように僕は感じるんだ。自らを導いて、自身の身を置くわけだけど、自分ではコントロールできない。感じながらも実存しないもので、自分にとってはリアルなものなんだけど、自分の内面で起きていることは他の誰にも理解できないんだ。だから、信仰心の話になると、僕はまず音楽を思い浮かべる。今作における信仰心ということになると………僕、個人にとって、この数年間は、ひたすら客観的真実を探していたってことになるかな。そう、客観的真実を求めたんだ。嘘やごまかしは要らなかった。そして暫くして、生きるには……ほんの少し自分で作り上げた魔法で味つけをしなければいけないと感じるようになった。生きる意味を持たせるためだったり、刺激を与えるためにね。そうやって客観的真実を求める作業もまた何か信仰心に近いものがあるように思う。確信が持てるものばかりではないわけで、前に進むためには、絶対的真実でないものも受け入れなければいけないのだと、自分に言い聞かせなきゃいけないんだってね。そういう意味では、10代のときに村上春樹が好きで、村上春樹を通して、安部公房や三島由紀夫を知って、そうやって日本文学に触れる中で遠藤周作についても知ったことは大きかったかもしれない。

――そういった日本文学を通じて、西洋にはない日本独特の精神性というものを感じますか。

R:どうだろう…。翻訳されたものだとなかなか難しいんだよね。もちろん、これまで読んだ日本の文学作品はどれも面白いと思ったし、違う文化に根付いているのも感じ取れるんだけど、翻訳されたものだと、明確にどうって説明できないんだよね。
僕自身、日本語ができるってわけではないんだけど、高校のときにスカイラーも僕も日本語の授業を3年間とっていてね。スカイラーの方は、流暢とまではいかないけど、なんとか日本語で会話が成立するくらいはできるよ。僕には到底無理だけどね。書いてある文章は……今でも平仮名とカタカナは読めるけど、漢字は無理だなあ。

――そうやって辿り着いた境地の今作が、より神々しさを増した、ゴスペル~ドゥーワップ色の強いヴォーカル・ミュージックとさえ呼べるような仕上がりになっているのも何やら象徴的に思えます。とりわけ、その客観的真実を伝えるための手段としての歌、ヴォーカルに対する意識が強まっているように感じたのですが、あなた自身はそこに自覚的なのでしょうか。

R:ああ、もちろん。実際、ヴォーカルを録るのだけで6週間かかったよ。本当に本当に濃密な行程だった。ヴォーカルに関しては、デュエットは、レコーディングしてても楽しかった。二つの声で同時に歌うんだ。あと、より高音、より低音で歌おうとしたり、より人格を持って歌おうと心がけた。歌で伝える上で、より芝居掛かった感じとか、ニュアンスを大切に歌うようにしたよ。対して、演奏やアレンジについては、バンドとしての可能性を広げたいという思いがあっただけで、とにかくワクワクする、多彩で、驚きのある、人を惹きつける美しい作品にしたいという大きなイメージがあった、そんな感じ。できる限りの音楽的アイディアを出し尽くしてそれを実現したいと思ったんだ。そのために影響を受けたものとして、ボブ・ディラン、モロッコのグナワ・ミュージック、Mulatu Astatkeといったエチオピアの音楽、モロッコのAmmouri MbarekやMahmoud Guinia、それとイーゴリ・ストラヴィンスキー、中でも特に『ペトルーシュカ』『春の祭典』『管楽器のための交響曲』にはかなり傾倒したよ。それと、ローリー・アンダーソン、スティーヴ・ライヒ、デヴィッド・アクセルロッド、エレクトリック・プルーンズ、カレン・ダルトン、アーサー・ラッセル、チャールズ・ミンガスの『The Black Saint and the Sinner lady』、ビーチ・ボーイズ、ヴァン・ダイク・パークス…。

――なるほど、いずれも客観的真実をあぶり出すにあたってヒントになりそうな作品、アーティストばかりですね。では、そうした経緯によって完成した『Crack-Up』という強烈なメッセージの先にあるもの、あなたがそれを受けて希望するのはどのような社会、未来でしょうか?

R:う~ん、そうだなぁ。作品って出来上がったら自分たちの手を離れてしまうわけだからね。こうしてアルバムが完成して、今はライヴをやるのも、次回作に向けた曲作りを始めるのも楽しみってことくらいかなあ。今作を作るにあたって、これまでのアルバムと決別する作品というよりも、アルバムを聴き終えたときに、これまでバンドのことを見守ってきてくれた人たちがこの先僕たちがどこに向かおうと受け入れられる…と思えるようなものにしたかった。バンドがさらに探求を続け、より深くみを増し、より恍惚とした、意外な場所へと行ける、扉を開いてくれる、とんな作品にしたかったんだ。そんな未来に自分たちが向かっていることを願っているよ。

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Text By Shino Okamura

Photo By Shawn Brackbill


Fleet Foxes

Crack-Up

LABEL : WARNER MUSIC JAPAN / NONESUCH
CAT.No : WPCR-17767
RELEASE DATE : 2017.06.06
PRICE : ¥1,980 + TAX

■フリート・フォクシーズ ワーナー・ミュージック・ジャパンHP内 アーティスト情報
http://wmg.jp/artist/fleet-foxes/profile.html

■フリート・フォクシーズ OFFICIAL SITE
http://fleetfoxes.co/crack-up

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