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立体音響と90年代のイルカ
ヘンリー川原論考(時代考証資料編)

13 August 2021 | By Koki Emura

【はじめに】

昭和天皇崩御のちょうど1年前、日本の書店の局所で、『ホロフォニクス・ライブ』と題されたまがまがしい装丁のカセットブックがとぶように売れていた。そのカセットの中味は外装から連想できそうもない日常に付帯する音が収録され、定価は当時のミュージックテープの倍近い4800円。てっとり早くいえば、生活音のテープが高値でバカ売れしたのだ(!)。昨今、動画投稿サイトにひしめく「ASMR」コンテンツの系類の先祖(※註1)でもあるこのリリースを仕掛けたのは、古史古伝や神道霊学関連の文献を出版していた《八幡書店》だった(※註2)。これが呼び水となり、ヘンリー川原を名乗る音楽家が同出版社を訪れたことでひとつのストーリーが動きはじめる。

『ホロフォニクス・ライブ』カセット



ヘンリー川原は福岡出身のエレクトロニック・ミュージック・プロデューサーで、エンジニアリングも得意とし、90年代前半の短いあいだ、アルバムにして20枚ほどのCDを制作するも、その後、音楽界から姿を消した、アンタッチャブルの雰囲気をかもすクリエイターだ。彼はCD再生機が普及した時代とパラレルで需要がましていったヒーリング/アンビエント音楽マーケットをオカルト的方向に開拓したひとりで、その名を知るものから同音異口に「怪しい」という言葉が漏れでてしまう存在だ。この川原の音楽を追った世界初のアーカイブ『電脳的反抗と絶頂:エッセンシャル・ヘンリー川原』を《エム・レコード》より発表した。

・CD版: https://emrecords.shop-pro.jp/?pid=159298908
・LP版: https://emrecords.shop-pro.jp/?pid=159298541

『電脳的反抗と絶頂』にはアーティストの沖啓介の寄稿/《八幡書店》社主、武田崇元のインタビュー/筆者の拙文を掲載し、音とともに故・ヘンリー川原の解題を試みている。沖啓介の寄稿ではメディアアートの分野で川原とともに創作活動した体験談が、武田崇元インタビューではサイバーオカルトを仕掛けた当人から当時の事情があかされている。

本寄稿は、『電脳的反抗と絶頂』の企画着手からリリースまでの十余年に集積してきたことの一端をまとめたもので、『電脳的反抗と絶頂』の解説では紹介しきれなかった、90年代前半の川原の近くでおきていたことを例にひき、彼の時代を追体験あるいは再認識するためのガイダンスだ。ここでは、立体音響の局地ブームを端緒に、90年代のアイコニックな表象である<イルカ>を触媒したデジタル・ニューテクノロジー、オカルト、アパレルブランド、インダストリアル・ミュージック、レイヴの各現象がネット経由で移動し交錯する。そして、これらが80年代から90年代の、10年ほどの時間と空間をまたいで引かれた複数の線をたどってすすみ、途中、その線が交わる瞬間を目撃する。最後には奇妙な縁(えん)の結線をみるが、それはいったい何本の線を束ねたものになるだろうか。あなたはそこを横断するものに何を見つけるだろうか。

この寄稿を主とし『電脳的〜』を副とするインタラクティブな読み込みも当然できる。双方を読めばおのおのの関係性がわかるように書いているため、併読してもらえたらうれしい。

そして、本寄稿はこの後に予定されている結論へ向かう導線でもある。



※註1:
ASMR(Autonomous Sensory Meridian Responseの略)とホロフォニクス立体音響であらわされる<音>の受容のされ方は、大きく異なるかまったく違うことを明言しておきたい。ごく荒い説明をすれば、ASMRは「気持ちいい〜」という生理的な心地よさを満たす音の表出と受動、ホロフォニクス立体音響は左右2チャンネルのステレオ機構ではありえないとされた上下前後までも含めた音の動きを表出することで、ほとんどオカルト的(!)な聴感覚の延長を演出するとされる(テープ帯にある「聴くまでは誰も信じない」は名コピーだ)。たとえば「炭酸水をつぐ」音をASMRとホロフォニクスで表出したばあい、前者はひたすら心地よさの追求なのだが、後者は本物以上に本物っぽく音が再現され、心地よさどころか逆に薄気味悪さを感じてしまう。



※註2:
八幡書店の出版物について社主・武田の説明を以下にひく——
「80年代に八幡書店が『竹内文献』等の異端文献を出版したのは、「偽史運動」を展開するためではなく、埋もれた文化資料としてである。そのため例えば、『竹内文献』の資料集では底本を明確にし、当時の内務省警保局の資料や関係者の回顧録も収録、近代宗教史において客観的に学術資料として通用するものとなっている」(『宝島30』1995年12月号「これはニュータイプのオカルトだ!」より)。




【立体音響と90年代のイルカ:八幡書店とアナーキック・アジャストメントとサイキックTVを横断したもの】

=目次=

・第一の線:新型立体音響の市場投入

・第二の線:立体音響のオカルト的実践

・第三の線:ホロフォニクス日本上陸とスティーヴン・ハルパーン事件

・第四の線:無秩序の秩序とデジタル/レイヴ・カルチャー

・第五の線:イルカと日本のシークレット・シンジケート

・結線:オカルティストが呼び込んだ必然的偶然

【第一の線:新型立体音響の市場投入】

1983年、英CBSからホロフォニクスの実演LP『Zuccarelli Holophonic』が発売された。ホロフォニクスとはアルゼンチン系イタリア人の神経生理学者で技術者、ヒューゴ・ズッカレリが制作した立体音響システムで、バイノーラル録音方式をカスタマイズしたものとして当時話題になるものの、そのシステム情報はいまも開示されていない。

https://en.wikipedia.org/wiki/Holophonics
(※事実の非公開性を好むズッカレリの性格もあって、現時点、この情報の信憑性は決して高いとはいえない)

Wikipediaによれば、ズッカレリはミラノ工科大学在学中の1980年にホロフォニクスの技術を<発見>し、英CBSでこの立体音響のデモンストレーション・アルバム『Zuccarelli〜』を発表。LP裏面に記載された「WE DEDICATE OUR FIRST HOLOPHONIC RECORD TO」という文言によれば、このLPがホロフォニクスの初のレコードとなるのだが、それが厳密な意味で「FIRST」なのか実のところはあやしい(理由は後述)。

(筆者調べでは、イタリアの《PolyGram》傘下レーベルから『Holophonic Effects』と銘打った彼のホロフォニクス立体音響のアルバムが発表されており、ズッカレリがイタリアに留学していたことをみると、このイタリア盤が英CBSより先に出た可能性もある)

『Zuccarelli Holophonic』英CBS LP表ジャケット



『Zuccarelli Holophonic』英CBS LP裏ジャケット



英CBSのLPが発売される前の80年代初頭、ズッカレリはなんらかの手段でスポンサーを得てイギリスに移住し、ロンドンに《Zuccarelli Labs Ltd.》という会社を設立している(※註3)。ホロフォニクスの噂はすぐ業界に流れ、英CBSの契約アーティストだったピンク・フロイドが『The Final Cut』(1983年)で、同グループのメンバー、ロジャー・ウォータースが『The Pros and Cons of Hitch Hiking』(1984年)で、そしてポール・マッカートニー卿も「Keep Under Cover」(1983年のアルバム『Pipes of Peace』収録)でホロフォニクスを使っている。

しかし、これらに先だち、ホロフォニクスはオカルティスト達によってすでにレコード化されていたのだ。

※註3:
『ユリイカ』1987年6月号「テクノ・アート特集」誌上で、メディア美学者の武邑光裕は「ミュージシャンのスティーブ・ヒレッジやヴァンゲリスとの交流を通じ、イタリアからイギリスに移ったズッカレリは、ターボ・スピーカーの生みの親であるエンジニア、トニー・アンドリュースや多くのミュージシャンから最大の評価とサポートを受け、イギリスにおける「ホロフォニクス」旋風を巻き起こし、一躍音楽ジャーナリズムの寵児となった」と説明している。

一方、リアル・インダストリアル・ライター、持田保の指摘によれば、ロンドンにあったズッカレリのラボについて、コイルのジョン・バランスの談話に「ズッカレリがどうやってスポンサーを得たのかを話すのは好きじゃない」と回答を拒否していた逸話をあげ、複雑な事情があったとも推測できる。



【第二の線:立体音響のオカルト的実践】

世界で初めてホロフォニクスが音楽作品につかわれたのは、サイキックTV(以下、PTV)のファースト・アルバム『Force the Hand of Chance』で、発売は『Zuccarelli Holophonic』の前年1982年だった。スロッビング・グリッスル(以下、TG)を前身とするPTVの説明ははぶくが(参照:https://en.wikipedia.org/wiki/Psychic_TV)、TB時代からオカルティズムを積極的にイメージに取り込んできたグループの方針が、PTVになっていよいよオカルト中心といえる方向に発展してくる。ゆえにPTVがホロフォニクスにとびついたのは示唆的であり、後述する八幡書店の展開とも一致する。

PTVは続くセカンド・アルバム『Dreams Less Sweet』(1983年)の全てをホロフォニクスで制作し、これは、持田によれば、世界初の完全ホロフォニクス録音の音楽アルバムになった。実現にはPTVのプロデューサー兼エンジニア、ケン・トーマスの存在があり、トーマスがズッカレリのビジネス・パートナー、マイケル・キングと知りあったのが発端という。PTVはほかに先駆けてホロフォニクス・システムをズッカレリからレンタルしたわけだが、期間は1ヶ月のみの契約で、料金は約3万ポンド(当時の日本円で1300万円相当!)だったと噂される。『Force〜』では一部使用のみだったこのべらぼうに高額なホロフォニクス・システムを、レンタル期限内に使いたおすべく奮闘するPVのようすはこちらの記事にくわしい。

この記事にある82、3年当時のホロフォニクス・システムを描写した証言をみると、ホロフォニクス機材の外観はバイノーラル録音方式を踏襲し、本体であるダミーヘッドは本物の人間の頭蓋骨をつかい、骨の表面には人工の皮膚を貼り、頭部に本物の人毛をのせていた。このダミーヘッドの愛称は「リンゴ」で、同じあだ名のアルゼンチンのボクサーに由来し、顔も当人をかたどったものだったらしい。

そして両耳の奥に埋め込んだデバイスから7ヘルツの電波——毎秒7回振動する波形で人間の耳では聞こえない——が、ズッカレリ側がひんぱんにつかう専門用語である「参照波」の代用として放出され、コウモリやレーダーの仕組みとおなじように物体にあたって反射したものを解析し、ダミーヘッドからケーブルでつながれたジュラルミン製ケース——この機構のブラックボックス的存在——から解析後の音声がライン出力され、それをPTVはテレコに録音していったという。

記事ではこの機構をポラロイド・カメラにたとえてあり、ホロフォニクス録音が音声(音波・電波)信号の出力・入力を同時に行って解析するものだという意味かもしれないが、その説明では首肯しかねることが多い。『電脳的反抗〜』ライナーで武田崇元も証言しているように、ズッカレリの意向で核心部が「隠蔽」されているため、すべては憶測の粋内で封じられるのだ。

サイキックTV『Dreams Less Sweet』LP表ジャケット



サイキックTV『Dreams Less Sweet』LP裏ジャケット拡大図。下部に登録商標ホロフォニクスが大きく表記されている



ズッカレリと武邑光裕が出演した1989年のTV放送



ところで、ファンに戸惑いをもってきかれてきた『Dreams Less Sweet』への論評をつまんでみると、PTVにとって核心であったはずのハード面=ホロフォニクス録音からの論考が抜けているのに気付かされる。正確にいえば、ホロフォニクスへの言及はあるものの、それが及ぼす効用と使用の真意についてはじゅうぶん考察がされていないか無視されてきたようにみえる。英インダストリアルを牽引するバンドが法外なレンタル費用を払い、メジャー契約を賭けてまで獲得しようとした「何か」だったにもかかわらずだ。

こうしたホロフォニクス軽視から導かれる『Dreams Less Sweet』の印象は、TG時代から進めてきたハードエッジな批評性が失せた(ように見える)、アコースティックで、TGの美観の微塵もない60年代ポップス様のもの、原点回帰なのか退行なのか理解にくるしむものだろう。それは素直な反応だといわざるをえない。

唐突だが、では、『Dreams Less Sweet』がかつて世間を騒がせたマンソン・ファミリーが(犯行前に)内輪で録ったセッションだったとしたらどうなるだろうか。PTVは『Dreams Less Sweet』にそのような種類の、カルト(オカルト)の密室空間的イメージを演出したかったのではないかと筆者は推測し、もしそうだとすれば、以下の理由が考えられる。

1)
(当時の)ホロフォニクスは眼前でおこっている音響現象の現実感をデフォルメしたように録音・再現することを得意としたシステムで、TGでやってきた(当時あたりまえの)マルチトラック録音>機材内でミックス・トラックダウン方式では、ホロフォニクスの効果は期待できない。「ホロフォニクスは自然界の相互作用を再生する」(武邑、上掲『ユリイカ』より)からだ。

2)
ホロフォニクスは、初期の西洋クラシック音楽などでおこなわれてきたアコースティック楽器をスタジオないしコンサートホールで、オーバーダビングなしに1本のマイクに実況的に録音する手法を発展させ(その先駆にバイノーラル録音がある)、それをヘッドホンで再生した際、まるで眼前で起こっているかのような現実感——武田が『電脳的反抗〜』で語ったように現実よりも現実的な「過剰な現実感」——を体験させる。非常に繊細な領域での一種のトリップ感が味わえるものと言いかえてもよい。



ここで思い出したいのは、世を驚かせた「過剰な現実感」で聴覚的オルガズムを提供したホロフォニクス立体音響の実演LPに収録されたのは、冒頭でもふれたように、生活音、具体的には「ジッパーの開閉」や「マッチを擦る」音だったことだ。ホロフォニクスは水平的思考で作曲された重層的かつ複雑な構成をした和声構築の音楽、すなわち西洋クラシック音楽の録音にも挑戦してはいるが(筆者個人の感知では)ホロフォニクス効果は、手でさわることができる範囲で発生する音、例えば「マッチを擦る」行為の「過剰な現実感」の説得力にはおよばない。われわれがすでに知っている音像(リファレンス)とたやすく比較できるという理由があったに違いないが、ホロフォニクスの効果を顕著に発揮し知覚させるには録音対象に制約があるのだ。もっと直接的にいえば、自然音響かつ音の発生源が聴覚の経験値としてたやすく同定できるものでないとホロフォニクスの超現実感は生成(受動)しにくい。そう、それまでTGが実践してきた種類の音楽には不向きなのだ。

PTVはそれを承知で、TGで展開してきた公開性重視のパフォーマンスをあきらめ、あるいはその音楽的にめだつアピールを犠牲にしてえらんだのが『Dreams Less Sweet』で演出された密室性、さらにその過度の強調、すなわち「過剰な現実感」ではなかったか。ホロフォニクス効果で、PTVの私的な内輪の演奏をすぐ横できいているような聴覚体験を狙ったハード面の事実こそが証拠ではないだろうか。まるでオカルティスト達の密会を覗き見するような錯覚——現実をつき抜けた虚構——に誘導するものとして。

それにしても、オカルトをパブリックイメージにしていたPTVと、オカルティストから歓迎・支持されたホロフォニクス。オカルトには「隠されたもの」という字義があるそうだが、システム全貌を隠蔽するズッカレリといい、なんというマッチングだ。

しかし話はこれだけでは終わらなかった。

※これらPTVに関する情報はリアル・インダストリアル・ライター、持田保氏より頂いた。改めて持田氏に感謝したい。なお『Dreams Less Sweet』については同氏のブログ記事を参照されたい。

【第三の線:ホロフォニクス日本上陸とスティーヴン・ハルパーン事件】

ホロフォニクスが日本で一般に知られたのはマイケル・ジャクソン『Bad』(1987年)での使用だとおもわれるが、ほぼ同時期、ホロフォニクスは正式にエクスクルーシヴ契約されて日本に上陸する。ところが、先に書いたように、この契約をとりかわしたのはオーディオメーカーでも大手レコード会社でもなく、神道霊学や古史古伝の文献をあつかう出版社、《八幡書店》だったのだ。

一見、結びつきそうもないこの飛躍はどう起こったのか?

《八幡書店》を経営する武田崇元は、日本のオカルト・ブームのフィクサーとして畏れられ、<霊的ボルシェビズム>(※註4)の語を創り、80年代にいわれた三つのエヌ、すなわちニューエイジ/ニューサイエンス/ニューアカの論客も刺激したカリスマ性をともなった人物で、当時、中沢新一や細野晴臣にも影響をあたえていた。ホロフォニクスの契約は、当時の武田と八幡が大本教の出口王仁三郎の関連書籍で一部世間をにぎわせていたころにあたるが、雑誌『宝島30』1996年1月号に掲載されたインタビューで武田は以下のようにこたえている。

宝島:(前略)八幡書店の出版傾向は八〇年代の終わり頃からかなり変わってきていますよね。
武田:王仁三郎のいわゆる未来予言とされるものを分析すると、メディアとか感覚の延長に深くかかわるものが大きなウェイトを占めていた。そうしたものに出会ったことで、それまで古史古伝とか神道霊学関係の文献を中心に出版していた八幡から、ホロフォニクスとかマインドマシンなんかを出すきっかけになった。外から見ると突拍子もないと思うかもしれないけど、こちらとしては自然な流れだったわけですよ。



この《八幡書店》が興した音楽レーベルの第一弾がカセットブック『ホロフォニクス・ライヴ』であり、これが一部の書店で大ヒット。カセットの中身は先の『Zuccarelli Holophonic』増補版だった。
ホロフォニクスを迎え入れたのは、そこに新種の異界感を嗅ぎつけたオカルト・ムーブメントの支持者たちと、コンピューターを筆頭にしたニューテクノロジー/ニューエッジのシンパで、それらは往々にしてかぶっていたわけだが、彼ら彼女らは八幡書店の顧客もしくは潜在的顧客でもあった。そこに向けて同社がおこなったホロフォニクスのプレゼンは、サイバーオカルトな装丁もふくめて時代の要求を正確につかんでおり、その訴求力は現在でも衰えていない。

続けざまに『アルファベット・サウンズ・ゲーム』『アルデバラン』に題名を変えた『ホロフォニクス・ライヴ』のCDが発売され、ホロフォニクスものの好セールスを創出していくなか、さらに次作を要請する八幡書店にズッカレリがおくってきたのがスティーヴン・ハルパーンのホロフォニクス録音『幻視のリズム(原題:Rhythms Of Vision)』だった。 そして、ここで椿事が起こった。それは何だったか?

同アルバムは《八幡書店》に先んじて既に《キャニオン・レコード》からCD発売されており、しかも発売時期が重なっていたのだ。キャニオン盤は1987年、八幡盤は1988年の発売で両者は市場でかちあっている。その珍しい経緯の原因を推測してみる。

《キャニオン・レコード》は1986年から《Windham Hill》のカタログを日本で主にCDで配給している(それ以前は《アルファ・レコード》の配給)。その流れで《Windham Hill》のニューエイジ・ミュージック路線を拡張するためスティーヴン・ハルパーンが追加されたと思われる。時期は業界誌『Billboard』でニューエイジ・チャートが設立される前年で、ニューエイジ・ミュージックが日本のマーケットで急拡大したころだ。

問題のアルバムは、《キャニオン》で『リズム・オブ・ヴィジョン』の名で発売され、アートワークは1985年発表のオリジナル米盤と同じものを使用。ジャケット表面とクレジットにホロフォニクスの名は記載されているものの、解説や帯文句にはそれについて言及がない。ちなみにCD帯のたたき文句は「音楽療法にアプローチ」だった。つまり《キャニオン》はホロフォニクスに市場価値をみいだせなかったといえる。1986年時点で、既に40作以上あったハルパーンのアルバムの一部を、日本でのニューエイジ・ブーム(というよりも《Windham Hill》の成功)にひっかけてカタログ展開したものと断定してよいかもしれない。

いっぽう《八幡書店》は同アルバムに『幻視のリズム』の邦題をつけ、カセットブックで発売し1989年にCDで再リリース。同社第一弾の『ホロフォニクス・ライヴ』同様、ミルキィ・イソベによるハイエンドな装丁、武邑光裕の解説、おまけに高価な特殊紙が使われ、《キャニオン》と比べて力の入れように明白な差があった。

考えられる筋書きとしては、《キャニオン》は米レーベル側からのライセンス、《八幡書店》はホロフォニクス/ズッカレリ側からのライセンスで、さらに配賦場所が前者はレコード店、後者は書店とマーケットが異なっていたため、お互いその存在に気付かなかったというものだ。《キャニオン》側はニューエイジに名を変えた<格調高い>イージーリスニング/環境音楽の流れをくむ展開。いっぽうの《八幡書店》側はもちろんホロフォニクス推しでしかもほとんどトリップ・ミュージック扱いの展開で、狙いがまるで違っていた。両方を購入し不審に思った者もいただろうが、今のようにSNSのない時代である。念のため武田氏に尋ねたところ、このバッティングに気づいていなかった。(その第一声は「ズッカレリのやつ、やりよったか!?」だった)。

しかしながら、本当にほんとうにズッカレリは《キャニオン》盤のことを知らなかったのだろうか。ヴァージョン違いの可能性を考えた筆者は耳をそばだて聞いてみたがおなじものだった。それでは、マスター・ライツを二者が別々にライセンスすることがほんとうに可能だったのかという疑問が次にわいてくる。しかもライセンス先は同一国だったのだ。ホロフォニクスはソフト面でもハード面でも怪しい逸話を残している……。

※註4:
この<霊的ボルシェビズム>言説について武田自身の見解は「そもそも私がいつの頃からか「霊的ボルシェビズム」と口走った意味は、反近代なら何でもOK、精神世界なら何でもOKという、価値平等主義的な一部知識人のオカルト小児病に対しての警告の意味も込めてであった」。(『宝島30』1995年12月号掲載の寄稿より)



【第四の線:無秩序の秩序とデジタル/レイヴ・カルチャーの寵児】



イギリス生まれのグラフィック・デザイナー、ニック・フィリップは英のスケボー専門誌『R.A.D. ( Read and Destroy) 』(※1987〜1995年刊行。BMX専門誌として創刊し後にスケートボード誌に転向)のロゴをデザインしたことで、その名はスケボー好きの間で知られていた。スケーター/BMXライダーでもあった彼は、1988年、その本拠地であるカリフォルニアに移住。当時サンフランシスコ在住のデザイナーであり《Ozone Freestyle Bicycle Company》のオーナーで起業家、アラン・ブラウンが、フィリップが立ちあげつつあったアパレルブランド、アナーキック・アジャストメント(Anarchic Adjustment、以下AA)を後援し、「Pure Evil」の名でしられる画家でデザイナーのチャールズ・ウゼル・エドワーズもいれてAAを本格展開した。

1993年のアナーキック・アジャストメントの広告



AA登場前のスケートとBMXシーンは、あくまでマスメディアでの扱いという囲いでいえば、モヒカンもしくはギャング風のなりをしたスケーター達とハードコアやスラッシュメタルがオーヴァーラップした乱暴なイメージがついていた。そんな中、AAが持ち込んだのはブランド名にある「無秩序の秩序」「混沌の馴致」とでも訳すべき、サンフランシスコ発オカルト経由の、ニューエイジとデジタルサイバーカルチャーの混沌的メッセージで、そのハッカー的なスタイリッシュさとバランスをとる土台には、60年代ヒッピー文化のリスペクトからはじまったデジタル革命があった。





ニック・フィリップのデザイン一例



そんなAAの服はスケート/BMXシーンを飛び出し、フィリップがコミットしていた日米欧のクラブ・カルチャーと初期レイヴ・シーンでの交流を通じて、ミュージシャンやクリエイター、ハッカー達を魅了し、DJミックスマスター・モリス、石野卓球、ディーライト時代のテイ・トウワらがAAを身につけ、日本では藤原浩がマス・ファッション誌で積極的に紹介し、90年代前半に最先端ストリート・ブランドの地位を獲得。

フィリップがマックPCと初期Photoshopをあやつりサンプリングを駆使してつくりだしたグラフィックは、UFOの群れとブッダとサイバーイメージが混在するAAのプリント図版、草創期レイヴ・シーンの一連のレコードCDジャケットやフライヤー、ニューエッジ雑誌『Wired』や『Mondo』でのアートワークに見られるような、精神世界とテクノロジーが怪しく混融したシンボリックでポップオカルトな意匠を特徴にしていた。

そしてPTVのジェネシス・P・オリッジもAAに魅了されたひとりであった。

アル・ゴア米副大統領が情報ハイウェイ構想を打ち出した1991〜93年は、世界に先行してクリエーターたちがネットで繋がった時期で、フィリップはネオテニー思想を共有した日米のシークレット・シンジケートとでもたとえるべき地下コミュニティーと接触。彼の端末は渋谷区富ヶ谷に接続していた。この話は次に続く。

【第五の線:イルカと日本のシークレット・シンジケート】

《八幡書店》がホロフォニクスで開拓した立体音響市場へのアプローチは、90年代に入ってさらに発展し、その方向を国産ないし自社の立体音響に転換。ヘンリー川原のヴァーチャル・フォニックスや小久保隆のサイバー・フォニックという立体音響ものを発売していく。同社は本業の書籍出版を活かしたメディアミックス的戦略で、90年代にサイバーオカルト/ニューエイジ系の路線も開拓し、音楽と映像作品をおくりだしていくが、その中にジョン・C・リリー博士と谷崎テトラ(PBC名義)のアルバム『E.C.C.O』(1993年)があった。



『E.C.C.O』CD《八幡書店》リリース版の装丁



「E.C.C.O(エコ)」とは Earth Coincidence Control Office の略で、「地球暗号制御局」と紹介されたリリー博士の概念のひとつだ。以下、《八幡書店》CD帯に掲載された文章を転載する。

E.C.C.O(地球暗号制御局)からのサブリミナル・メッセージ
リリィ博士とイルカの知覚変容実験
人類の宇宙的進化を司るECCO(地球暗号制御局)からのメッセージを解読したジョン・C・リリィ博士。自らECCOの使者と名乗る博士の反復言語の実験、イルカとの異種間コミュニケーション実験を音像化した本作品は、永遠の反復ループに幽閉された人類を全的に開放するメタ・プログラミングでもあるのだ。
ハウス・ダブの雄、PBCによるアンビエント&トランス・リミックス、スーフィーのグル、E.J.ゴールドによる「コジテイト」ジャズ・ヴァージョンなど、エコ・コンシャス・サウンドが知覚のオーバードライブを誘発する!





『E.C.C.O』のリリース経緯を谷崎テトラに取材したところ、谷崎が編集長をつとめたフリーペーパー『ET PLUS(エプリュ)』(1989年より刊行)がまず伏線にあり、武邑光裕、植島啓司、室井尚、阿木譲、虹釜太郎らを執筆者に揃えた同誌において、1990年に行ったティモシー・リアリーのインタビューを契機に、90年代はじめの渋谷区富ヶ谷を舞台にした西海岸コミュニティとの交流がはじまり、それが『E.C.C.O』につながったという。

ティモシー・リアリーのインタビューが掲載された『ET PLUS』Vol.17「特集:脱地球意識」 1990年



キーパーソンは、当時ハッカーでクリプト・アナーキストだった伊藤譲一(その後マサチューセッツ工科大学教授、MITメディアラボ所長)で、日本初の民間ホームページ 「富ヶ谷」を開設した伊藤は、当時住んでいた富ヶ谷のマンションのバスルームにひいた日本で最初の商用インターネットのルーターを通じ、西海岸のデジタル・カルチャーと直結。当時、日本のシリコンアレーといわれた富ヶ谷には、谷崎、武邑、CG作家の松木靖明らもすんでおり、ネオテニー、エコシス、psyvogueなど、できて間もない概念を共有したシークレット・シンジケート的な集団が発生。富ヶ谷につどうAAやH2Oを着た若者たちと、デジタル・カルチャー、ニューエイジ、クラブ・カルチャー、ポップオカルトが混合したコミュニティを形成した。先のニック・フィリップをはじめ、アレックス・グレイ、ティモシー・リアリーらもダイレクトにこのコミュニティに直結していたと谷崎はいう。

そして、この富ヶ谷メンバーがNHKの番組『NEW BREED』(1994年)の制作チームに発展する。構成を谷崎、企画と番組ナビゲーターを伊藤譲一とティモシー・リアリーが担当した同番組には、第一回から第五回放送まで富ヶ谷と米西海岸コミュニティの面子が総出演しており、たとえば第一回にはハワード・ラインゴールド、スコット・フィッシャー、エリック・ヒューズ、ティモシー・メイなど西海岸のニューヒッピーと伝説的ハッカーが登場した。第三回には武田崇元と武邑光裕が出演し、本邦オカルトのポップ・アイコンとなった出口王仁三郎が修行した高熊山のロケがおこなわれているが、この回を「サイケデリック+デジタル+霊性がディープに結びついたのは、ここだったと思う」と谷崎は話す。また、谷崎は『NEW BREED』のロケで訪れたサンフランシスコのデジタルガルチで、後述するキム・カスコーンと会っている。

時期は『NEW BREED』と若干前後するが、この富ヶ谷=米西海岸コミュニティからうまれた別のエポックな企画が、ビデオ作品『イルカと人間』(メルダック、1993年)である。『イルカと人間』は、国際イルカ・クジラ会議のためリリー博士が作った映像の日本版として、谷崎のプロデュースで制作されたドキュメンタリーであり、先にふれた『E.C.C.O』CDはそのサントラ盤だった。『E.C.C.O』の内容はリリー博士の英語版ドキュメンタリー音源やワークショップで使われていた音声を素材に、谷崎がP.B.C名義で音源をプロデュースした。

『イルカと人間』VHS(1993年、メルダック)



この『イルカと人間』〜『E.C.C.O』につながるもうひとりのキーパーソンが、リリー博士の著作を日本に紹介した翻訳家/作家でトランスパーソナル心理学者の菅靖彦である。谷崎によれば「(当時)おそらくサイケデリックやトランスパーソナル心理学の専門用語を理解する唯一の翻訳家であったと考えられ、その意味でリリー博士の言葉を正確に代弁できた」のが菅だったという。

谷崎、伊藤、武邑よりもひと世代前の菅が翻訳したリリーの著作、とくに『サイエンティスト 脳科学者の冒険』(平河出版社、1986年)は先駆として富ヶ谷コミュニティにとどいており、リリーの代理人もつとめていた菅と谷崎らは自然と交流する。菅はリリーのワークショップに参加した経験も活かし、『E.C.C.O』には総合プロデュース役で参加している。

『サイエンティスト 脳科学者の冒険』書影



また『E.C.C.O』にはリリーと親交のあったスーフィー教徒のミュージシャン、E・J・ゴールドも一曲リミックスで参加。彼はリリー博士のスポークン・ワード・カセット『The Cogitate Tape』(1988年)もリリースしている。

『E.C.C.O』のイルカをモチーフにした象徴的なアートワークはAAのニック・フィリップによるもので、初期インターネットを経由した富ヶ谷=西海岸コミュニティからできあがったものだった。そして《八幡書店》でリリース後、米の電子音楽作家、キム・カスコーンから『E.C.C.O』をリミックスしたいと申し出があり、カスコーンが主催する《Silent Records》から『E.C.C.O』がライセンス発売されたのも自然ななりゆきだったといえる。この米盤にはカスコーンのリミックス2曲が差し替え収録された。

『E.C.C.O』CD《Silent》米盤



《Silent》はもともとノイズ/インダストリアルを標榜したレーベルだったが、カスコーンがTVドラマ『ツインピークス』の音楽編成にかかわって以後、方針を転換し、アンビエント/テクノ/ブレイクビーツ系レーベルとなって西海岸でも盛り上がっていたレイヴ・シーンとともにあゆんだ。《Silent》はニック・フィリップのグラフィックをリリース作品にたびたび使い、フィリップが選曲リミックスしたコンピレーションも発売しているが、『E.C.C.O』のアートワークについては日本側のオリジナル企画だった。

脳科学者の音楽アルバムという型破りな企画であったが、リリーが提唱しワークショップで実践されていた「Cogitate」の、ゲシュタルト崩壊を誘発する反復チャントとコンテンポラリー・ミュージックは相性がよく、その混融を谷崎は電子音楽でプロデュースし、音波上だけでなくリリーとの精神性でもコラボレーションをおこなったといえる。また本作は実質、谷崎のアルバムといって過言でない。

当時、動物学、生態学のみならず心理療法や精神世界、サイバー世界までを巻き込んだイルカへのマルチメディア的関心、それと同時に国際政治での捕鯨問題があったことをわすれてはならない(いまだ完全な解決があったようにはみえない)。現在もイルカ(とクジラ)の存在を肯定し擁護する立場、研究対象として批評的な立場、擁護者研究者の論理に批判的な立場など複数の様相があるが、本論考ではそれをあつかわない。 日本の音楽業界ではアンビエント・ブームの仕掛けとともに、1990年代後半、イルカのイメージをジャケットに使ったCDが市場に氾濫したが、このブームの前、「MULTI-MEDIA MIX MAGAZINE」を謳った『スタジオボイス』では再三、関連特集が組まれ、誌上には谷崎、武邑、伊藤ら富ヶ谷コミュニティと八幡書店にゆかりのある関係者がひんぱんに登場し、リリー博士のインタビューも掲載された。

※蛇足だが、70年代初期にリリーはイルカとコミュニケーションを図ったフィールド録音を米《Folkways》から発表している。題名は『Sounds and the Ultra-Sounds of the Bottle-Nose Dolphin (Sound Communication Between Dolphins and Vocal Exchanges Between Human and Dolphin) 』[1973, Folkways 6132]。



テトラノオト#175 ジョン・C・リリー「宇宙意識への旅」



テトラノオト#176 『イルカと人間』〜ジョン・C・リリー博士 PART2


【結線:オカルティストが呼び込んだ必然的偶然】

1980年代後半、PTVは23の謎を認識し、毎月23日23ヶ月間ライヴ・アルバムをリリースすることを発表。そのプロジェクトが終着しつつあった1989年、PTV唯一のサウンドトラック集『Kondole – Ov Dolphins and Whales』(初版はPsychick TV名義)が発表された。

収録曲の「Kondole (Thee Whales)」は、デビッド・ルイスとアンディー・クラッブが制作していた23分の映画のため、1988年1月23日に録音された曲で、同年に限定ピクチャー盤『Album 10』で発表していた内容を一部改変したヴァージョン。「Kondole (Dead Cat)」はデビッド・ルイスが完成させていた映画『Dead Cat』のために1989年1月23日に録音された曲だ(同作にはデレク・ジャーマンとジェネシス・P・オリッジがカメオ出演しているそうだが筆者は未確認)。題名・曲名になったKondoleは、オリッジの娘、Genesseが2歳のときに見つけたアボリジニ神話の本に登場するクジラの名前に由来する。

1992年、オリッジは英チャンネル4の番組で幼児虐待を告発され、当時、タイの飢餓救済プロジェクトへの参加で同国に滞在していた彼/彼女のイギリスの自宅が警察に捜索された。しかしながら幼児虐待の事実はなく、チャンネル4も告発を撤回したが、身柄拘束と親権剥奪をおそれたオリッジは帰国をためらって英国外にとどまり、ついに彼/彼女がいう「exiles from Poor England(おぞましいイギリスからの亡命)」を決意し米に定住した(https://en.wikipedia.org/wiki/Genesis_P-Orridge「Psychic TV and Thee Temple Ov Psychic Youth」の項に掲載。訳は筆者)。また、彼/彼女はこの事件を「the negative press and police attention were the result of a vendetta conceived by a right-wing fundamentalist Christian group(否定的な報道と警察の介入は右翼原理主義のキリスト教グループによって考案された復讐の結果だ)」という見解を述べている(前掲同)。

この事態を受け、世界中のオリッジのファン、コントリビューター、レコード・レーベルはインダストリアル・ミュージックという世界観とジャンルを創出したオリジネイターへの敬意と忠誠をしめし、TGやPTVの作品を再発売して、彼/彼女とその家族およびメンバー達を売り支え買い支えた。その渦中で『Kondole』の再発がリストにあげられたのだが、本作には金銭的援助だけにおさまらないストーリーがあった。

サイキックTV『Kondole』CD



『Kondole』は前述の《Silent Records》から1993年にCD再発された。オリッジがチャンネル4事件の余波で、一時カリフォルニアに滞在した際にできた縁からうまれた企画だったようだ(※今回、同レーベル代表だったキム・カスコーンに取材したものの記憶が曖昧という返事があったため断定は避ける)。

そのCD再発のライナーに掲載されたオリッジ自身による解説——1993年1月23日、サンフランシスコで執筆と記載——には、彼/彼女がジョン・C・リリーの著作、特に『サイエンティスト 脳科学者の冒険』(原著は1978年出版)に影響を受けていたこと/亡命前にイギリスにあったイルカの水族館に足繁くかよっていたこと/Kondoleの名前の由来/かねてから『Kondole』の収録曲をトリロジーとして仕上げたかったことなどが独特の文体で綴られている。

そして、《Silent》盤CDはオリッジの念願かなって「Thee Whale」「Deadcat」の2曲に、1993年1月23日録音の新曲「Thee Shadow Creatures」をくわえた三部作の完全版として発表され、さらに3曲全てオリッジが好んでつかった霊的数字である「23」分に調整してあった。

そしてお気づきのように『Kondole』のアートワークは前述の『E.C.C.O』と同じくニック・フィリップの手になるもので、『E.C.C.O』と対になっているのがひと目でわかる。『Kondole』の装丁はオリッジのリクエストでフィリップに依頼し、同年発表の『E.C.C.O』と連動させたものといわれる。

このアートワークは、日本でいう団塊世代後期に生まれ、60年代カウンターカルチャー精神を地でいってジョン・C・リリーをリスペクトし、オカルトの実践者にして実験者であるオリッジが、同じ60年代カウンターの発祥地で、ヒッピー文化を受け継ぐデジタル・カルチャーとポップオカルトを折衷したニック・フィリップ(と彼のAA)に出会ったという陰画(因果)が焼き付けられた、シンボリックな画といえるのではないだろうか。

PTV『Kondole』とジョン・C・リリー『E.C.C.O』装丁の比較



かくして、オリッジと武田崇元、この同じ1950年生まれのカリスマふたりによるホロフォニクスへの接近からはじまった動きが、強力な<必然的偶然>(©︎ヤン富田)の作用で、60年代カウンターカルチャーの本拠地、西海岸を母体にしたストリート・カルチャーとレイブ・カルチャーから発生したサイバーオカルト感覚をひきよせ、それが90年代の初頭に日本で共振した瞬間をたどってみた。

ヘンリー川原や《八幡書店》に携わった人たちは、80年代後半から90年代前半、こうした時代の空気を吸い、あの「1995年」を迎えてからは、その意気(息・粋)が散逸していったような感覚がもたれる。そしてジェネPは昨年他界してしまい、ヘンリー川原同様、オカルト的存在になってしまった。

しかし、最大の謎である「なぜヘンリー川原は1996年に音楽界を去ったのか」という解題を放置したままにするつもりはない。この謎に挑んだヘンリー川原(および90年代前半の日本の音楽)研究の最終章をお待ちいただきたい。

最後に、この文章にながれる気持ちをふたりのアウトサイダー、ヘンリー川原とジェネシス・P・オリッジに捧げる。
(江村幸紀/エム・レコード)

※このテキストはヘンリー川原『電脳的反抗と絶頂』のライナーで江村氏が執筆し切れなかった部分を整理し新たに寄稿していただいたものです。

Text By Koki Emura


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