Review

Mura Masa: R.Y.C

2020 / Polydor / Anchor Point
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ノスタルジーの正体に迫るボヤけたコラージュ

18 February 2020 | By Daiki Takaku

人気だったバンドの再結成やら、高い視聴率を誇ったテレビ番組の復活やら、ヒット映画のリメイクやら。繰り返される再生産と焼き直しにだれもが半ばうんざりしながら生きているであろう昨今。このムラ・マサの新作は一聴するとそんなノスタルジー消費を全力でブーストするかのような、なんとも逆説的な方法論で仄かに新しいフィーリングを宿した非常に奇妙な作品である。と、書いてはみたものの、これだけではあまりに安易すぎる気がしている。なぜなら実際ここにあるのはノスタルジーに浸る安心感だけでなく、そんな自らへの懐疑的な視線であり、自己批判であり、冷笑であり、皮肉であり、メランコリーであり、ユーモアであり、今にも打ちのめされそうな「過去の中にのみ未来がある」という批評的な誠実さでもある。しかも、それらは交錯し、捻れ、淀み、濁り、仮想と現実が、想像と記憶が、幾重にも重なってボヤけているのだ。

本作は前作までのポストEDM的なアプローチから離れ、90~00年代のポストパンク的、あるいはロックバンド的な歪んだギターサウンドやダイナミズムが主な特徴となっているように彼自身の過去のリファレンスが現れた、サウンド的にも明確なコンセプトを持った作品だ。それは「I Don’t Think I Can Do This Again(with Clairo)」でTelevisionの「1880 Or So」がサンプリングされていることからもわかりやすい。ただここでムラマサが同曲のリリース時(1992年)にはまだ生まれていない、ということは留意しておいてもよいかもしれない。さらにいえば、「In My Mind」は本作中では少数の所謂クラブユースできる楽曲のひとつなのだが、幼少期に楽しんでいたテレビゲーム(任天堂)に触発されいることの他に、タックス・ヘイヴンやセーターで知られるガーンジーという小さな島で生まれレイヴに行ったことがないという彼が、想像でそれを懐かしみ感じる心地よさを表現している。なにより、本作の録音にはギターアンプも生ドラムも一切使用されず、それによってわずかに“不気味な谷現象”を作ろうと試みられている点がサウンドにおいての肝といっていい。彼の言うこの“不気味な谷現象”とはロボット工学者の森政弘・東京工業大学名誉教授が1970年に提唱した、簡単に言うと「(ロボットが)人と似すぎるとむしろ不気味になる」という現象のことだ。ムラ・マサはこれを青春時代の音の再現に当て嵌め、それによって本作に不気味な感覚を宿した。この不気味な感覚は同時にひとつの大きな疑問でもある。本作のサウンドそのものがノスタルジーであるとするのなら、それは果たして本物の記憶なのか、イマジネーションの産物なのか、そもそもイマジネーションの源泉は記憶/経験ではないのか、という堂々巡りの問い。本作のプレスリリースにもノスタルジーの探求がテーマに掲げられていると記されていたが、すなわちサウンドそのものが「ノスタルジーとは何か?」という問いかけとなっているのだ。

その問いを答えるように、リリックは親切なことに1曲1曲がノスタルジーについて角度を変えて捉えたピースとなっている。郷愁と変化していく環境の差異に戸惑う冒頭曲「R.Y.C」からノスタルジーに浸ることの虚無感と対峙する「No Hope Generation」、Instagramに直接言及せずにそのライフスタイルについて歌ったという「vicarious living anthem」に、Slowthaiをフィーチュアし故郷に抱く矛盾を抱えた感情をアグレシッブに表現する「Deal Wiv It」など。ただし、ここで注目したいのは、ムラ・マサの心情は固定されているわけではなく、肯定と批判、冷笑や皮肉もない混ぜにされている点だ。つまり彼は(客演陣も)あくまで、過去の自分ではなく現在の自分の視点から描いているということ。起点は常に“今”にある。ノスタルジーに浸る行為(ノスタルジーの探求)は否応なく現在の自分を浮かび上がらせることになるのだ。

また作中で最も前向きに捉えることのできるリリックはウルフ・アリスからエリー・ロウゼルを招き2人で歌う「Teenage Headache Dreams」にあるだろう。まずは2人が声を重ねたラインを引用したい。
“青春時代の夢にうなされる
楽しい時間はもう終わったみたい
でも実際は何も終わってないんだ
コントロールするようになっただけでね”
大人になるということについてこれほど端的に描いたリリックも珍しい。だが重要に思えるのは、ムラ・マサもエリーも対照的に“自由になりたい”と歌い、ブリッジでのムラ・マサは“ボクはまるで暴走列車さ”とまるでそれを諭すかのようで、見ての通り矛盾があること。この矛盾の中には「あなたの過去も想像力も、あなたにとっては凡庸に思えるかもしれないが、それはきっとあなただけのものだ」という力強いメッセージが隠されている。終盤はノイズに包まれ、暴走列車のごとく歪んだギターサウンドとともに終わりへと疾走していく。矛盾は解決されぬまま、時間という不可逆な概念に押し流されるように。

この奇妙なコラージュの全体像を眺めていると、絶望と希望が混じりあったような、不思議な気持ちになる。とても曖昧で、ぼんやりとした……ノスタルジーとは何か?その問いの答えは結局、明かされることはない。ただ、ノスタルジーを探求する行為を通して、ムラ・マサは間違いなく手に入れている。記憶と想像が混濁し薄っすらと浮かび上がる現在の自分という存在を。その中にある一縷の可能性を。使い古された言葉を借りれば、本作は自分探しの旅であり、その最新形なのだ。その旅は、ことポップミュージックにおいてリヴァイヴァルと呼ばれる現象が繰り返し起きていることの必然を伝えるとともに、クリエイティヴが嵌められがちな“新しさを求めなければならない”という鋳型をさりげなく崩してみせ、個人的な人生についても考えさせる、奇怪なコラージュ作品として我々に届けられたのである。このアルゴリズムの時代に、ポピュリズムの時代に、それが提示される意味とは?自分を守るため?それとも……考えているうちに、また時間は過ぎていく。

アルバム本編とは別に用意されたというラストソング「(nocturne for strings and a conversation)」の静けさに、この旅の終わりとしての”死”を想う。混濁とした意識の中で、それだけが唯一完全な未知であることを告げるようにベッドルームを満たすノクターン。眠りに落ちる直前、ふとNETFLIXで配信されているドラマ『Good Place(グッドプレイス)』のこんなセリフを思い出す。「Every human is a little bit sad all the time because you know you’re gonna die. But that knowledge is what gives life meaning.(人間は死を意識しているから、いつも少しだけ悲しい。でもそれが人生に意味を与える)」。あまり急かさないでくれ。(高久大輝)

【FEATURE】
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【REVIEW】
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