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物語が立ち上がる空間・時間のために〜
浮動するTaiko Super Kicksの音楽:
『波』と『石』を聴く

20 October 2021 | By Yuji Shibasaki

『夏時間』(原題『Moving On』)という映画をご覧になったことはあるだろうか。2015年の短編『Fireworks』で注目された1990年生まれのユン・ダンヒ監督による長編デビュー作で、2019年の第24回釜山国際映画祭で上映され、NETPAC賞等の4冠に輝いた作品だ(日本では2021年2月に公開)。公式サイトからストーリー紹介を引こう(この映画に「ストーリー」という語は適切なのだろうか、という疑問はあるにせよ。その理由は後に述べる)。

夏休みのある日、10代の少女オクジュは、父が事業に失敗したため、弟ドンジュと父と共に広い庭のある祖父の家に引っ越したが、そこに母親の姿はなかった。弟は新しい環境にすぐ馴染んだのだが、オクジュは居心地の悪さを感じている。そこに離婚寸前の叔母まで住みつき始め、一つ屋根の下に三世代が集まり、オクジュにとって、自分と家族の在り方を考えざるを得ない、夏の日々が始まった。オクジュが家と祖父に親しみを覚えるようになった頃、祖父が病気になってしまう…。

子どもたちが体験するひと夏の風景を描きとった作品で、ホウ・シャオシェン監督の『冬冬の夏休み』(1984年)などを始め、様々な名作のひしめく「夏休み」や「帰郷」を舞台にした作品の中にあっても、出色の一編であると言いたい。誰もが胸に秘めているだろう「夏のある日」の記憶をくすぐられるエピソードの数々はもちろん、繊細な光を巧みに捉えるショットや、家屋や調度品を極めて美しく捉えるフレーミング、既存音楽の巧みな引用など、そこかしこに鮮やかな映画的センスがみなぎっている。特に新鮮な感動と驚きを覚えたのが、その「非集約的」な構成だ。映画全体では確かに(生と死の気配を基軸とした)ゆるやかな「ストーリー」が漂流しているわけだが、本来それを構築的に形作るはずのプロットが、浮かび上がっては消え、消えては浮かび上がり、物語的な「結」を避けるように(というか、「結」の表面を撫でるように)スクリーンを周遊する。こうした話法自体は、映画史の中で優れた作家たちによってごく当たり前に採用されてきたものでもあるわけだが、『夏時間』においては、「不安定なモラトリアム」や、「帰郷」、「季節」という舞台設定が運び込むあれこれによって、その非集約的な色彩が一層鮮やかに映像化されているように感じる。

考えてみれば当たり前すぎるのだが、我々の生活においては、全てに優先して特段に前景化される統辞的な物語が常に確固たるものとして存在するわけではない。「実体」とみなされている物語は、アプリオリには存在しないはずの統辞的中心を編集的に抽出することで、その物語が絶対無二のものとして(任意の主体によって)仮設されているに過ぎない。それは、ある時は特定のイデオロギーであるかもしれないし、ある時は壮大な恋愛劇や復讐劇であるかもしれない。しかし、実際に私達の生活に日々絶え間なく去来するのは、そういった類のソリッドな物語性ではなく、ごく流動的なシークエンスであったり、プロット以下の断片であったり、感情未満の心の機微であったり、それらを生起させる儚い外的刺激だったり、逆に、自分でも統御することの難しい突然の心の乱れだったりする。

『夏時間』で描かれているのは、そういう意味における「リアリスティック」な時間と風景の、非連続的な集積であった。主人公のオクジュも、父ヒョンギも、物語的な結節点へ向かってその気持ちや行動を統べていくわけではない(いわゆる「行動原理」が内在化されていない)。ただ、その時々にある時間を生き、考えるのみであって、少し以前の喧嘩はふんわりと棚に上げられ、また別の日においては、それはそれでまた別の気持ちが重なり合っていく。

前置きが長くなった。Taiko Super Kicksによる2枚の新作アルバム『波』と『石』は、デビュー以来オルタナティブ・ロックの最上質部をすくい取ってきた彼らのバンド・サウンドが更に深化した、いや、深化しつつもこれまでのフォルムを心地よく裏切ってくれる驚きの傑作である。これまでは、あくまで(レコーディング・スタジオとかリハーサル・ルームとか)同じ空間を占める定立的なアンサンブルとして(それがいわゆる一般的理解でいう「バンド」なわけだが)機能してきた彼らが、この二枚においては、必ずしもそういったバンド的な内方向的/集約的関係性が自明視されていない。これは、全ての作詞作曲を担当するヴォーカル/ギターの伊藤暁里が地元福岡へと帰郷し、デモ制作やリハーサルといった過程においてメンバー全員で一箇所に集まれなくなったのに端を発しているのは容易に想像がつく。通常、このような場合、バンド的な「求心力」や「紐帯」がほぐれ出してしまうというのが(コロナ禍以前の)「常識」だった。しかし、今回Taiko Super Kicksは、このような地理的な隔たりをメリットととった。というか、そうした隔たりが結果的には、当初からほのめいていたバンドのクリエイティヴィティを滑らかに起動する役を担っている。

リモート環境の中、(たまに一部がスタジオ入りしながら)メンバー自身だけでデータをやり取りしながら仕上げていくという方法も採用できたであろうが、彼らはその過程にもう一つ大きな変数要素を取り込んだ。それが、プロデュースとミックスを務めた岡田拓郎の存在だ。ある酒席で伊藤からそれとなくプロデュースを相談された岡田はこれを快諾、以後じっくりと制作が進められてきた。Twitter上でのメンバーの曲解説や、音楽情報サイトMikikiに掲載された伊藤とこばやしのぞみ(ドラム/一部ヴォーカル)へのインタビュー「Taiko Super Kicks『波』の可笑しな詩情と真面目な抗い方」によると、初めに岡田が着手したのは、『波』収録の「えんえい」のデモ・トラックを自らのイメージに沿ってブラッシュアップする作業だったようだ。そして、メンバー達がその素晴らしい出来栄えに感嘆し、アルバム2枚分を通じて正式に岡田が関わることになった。

その「えんえい」が、おそらく今回の2作品のプロジェクトにとっての核心的なトラックであろうことは、聴き手としてもごく得心のいくところだ。各メンバーの演奏がひとつの大きなグルーヴを作り上げるというよりも、各メンバーの演奏を一旦は「個」のままに泳がせながら、他方向へ数珠をつなぎ合わせていくように音像化していく。はじめから終わりにかけて外部から圧搾する形で物語をひねり出すのではなく、未統合のプロットがそこここにある様をそのまま肯定しつつ、変幻する色彩を巧みに描き出す。伊藤自らが操るシンセサイザー、ピアノ、ヴォーカル、樺山太地のギター、大堀晃生のベース、こばやしのドラム、岡田のクラリネットは、何か強固な物語を生起させるようにはそれぞれを主導しない。それぞれの間にある距離を見計らいながら、それぞれへ道を譲るように在る。音符の動きを各人の足跡だとするなら、その足跡の描く絵が、様々な角度から様々な表情を見せる。言ってみれば、通常のポップスやロックが物語的な誘導因としてその統一的なアンサンブルを最大限に利用する戦略に基づいているとすれば、この曲においては、それがごく自然な形で剥落しているのだ(「アンビエント」的と評してもいいのかもしれない)。

こうした印象は、「えんえい」に限らず、2枚に収められた他の各曲にも通底している。デジタル・シンセサイザーのパッド音が耳をくすぐる「リフト」、プリミティブなリズム・マシンとシンセ・ベースの音色が密室的な質感を作り出す「合間」、アンビエントR&Bの芳醇な成果を彼ら流に消化したような「たましい」、電子音の不安定なフレーズが独特の浮遊感を演出する「音楽」、エレクトロニカ的静謐に彩られた「BS」、ミニマルかつ流麗な電子ファンク「ぽっち」など、特にエレクトロニック楽器が大幅に導入された各曲はもちろん、フォーク・ロックやインディー・ロックのイディオムに比較的忠実な曲においても同様の印象だ(この点、岡田に加えて、スタジオでの録音を担当したKlan Aileenの澁谷亮の貢献も相当に大きいと推察する)。

また、そうした非集約的な構造は、アンサンブル上の関係性において観察されるのと同じく、音楽的語彙という視点から聴いてみても各曲に共通する点である。上のように、一応は「〇〇(任意のジャンル名やアーティスト名)のような」という形容を与えてみても、決して「〇〇」の「内側」へ収束しはしない。むしろ、各語彙の外周部に放出される虹彩をすくい取り、それを混ぜ合わせることによって、各語彙の磁力(=各ジャンルに固定的な物語の生成力)に抗っているふうなのだ。これを「オリジナル」であると評するのだとしたら、全ての曲が非常に「オリジナル」なものだ。

伊藤のヴォーカル・スタイルの変化も聴き逃がせない。澄み切ったハイトーン・ヴォイスの魅力に磨きがかかったように聴こえるのはもちろんだが、随所でこれまで以上にアブストラクトな(ちょっとマンブル気味の)発声となっており、全体にキーを下げていつもより低めの声で歌っている。これらの変化と、上で述べてきたような演奏上の変革がよくマッチするのは当然だろう。これまでの歌唱が「語りかけ」だったとすると、より純粋な「語り」へと移行したようにも感じる。かといって、決して他者と無関係かつ独善的に言葉が紡がれているというわけではなく、むしろ、環境を深く眼差すゆえに、他者(環境)との交歓を経てこそ現れる純粋性なのではないか、と思わせる。

どうやら、ようやっと歌詞について論じることができる。伊藤の書く歌詞が優れたものであるのは理解していたつもりだったが、『波』『石』におけるそれは、全く異なったレベルに達している。クールなインディー・ロック・バンドが、どうして「東大の親戚がくれた椅子」という一節にアルバムの幕開けを託せるだろう(「椅子の椅子」)。あるいは、どうして「青梅はたぶん、縦に長い」(「青梅」)という唐突な雑感や、「もっと周りを見たほうがいいばい。」(「リフト」)といったふうに博多弁の一節を急に挿入できるのだろう。これを、センスエリーティズム的なユーモアの卓越化に下支えされた韜晦と理解するのは容易いかもしれないし、そのような形でこうした語が現れているのだとしたら別に他の凡庸なアーティストの歌詞にもありふれていると言える。しかし、ここで伊藤が試みているのは、どうやらそういった類いの「技法」ではないようなのだ。

伊藤はかつて、2019年12月に行われたワンマン・ライブ『Taiko Super Kicks SOLO SHOW “talkback”』開催に臨んで発表した文章で、大学時代ある講義で触れたという「詩」の構造論について書いている。「本来繋がらないとされている言葉や、異なる集まりの中にあるはずの言葉同士を、組み合わせることで詩ができる」という話が印象に残っているらしい。こうした言葉同士の異化作用というべき現象を、(これがまた伊藤の実にユニークなところなのだが)既存の主流食文化において昆虫食の導入がもたらす衝撃や、それゆえに浮かび上がってくる、特定の食文化体系がいかに任意のコードによって規定されているのかという考察と接続して文を続けている。詳しくは上のリンクから読んでみてほしいが、要約すれば、そのような昆虫食=異質物との出会いは(既存の文化圏内からすると)時にかなり奇異でユーモラスなものにも見えうるわけだが、これを覇権的なポピュラー音楽の歌詞一般についての問題意識に引きつけて、自らもその「奇異性」を自覚的に挿入していくことで、創作活動においてある種の変革を企図していきたい、としている。とすると、まさしく『波』と『石』における詞作にもこうした方法論が大きく反映されていると見るのが適当だろうし、実際、彼の企図は華々しい成功を収めているように思う。

注意しておきたいのは、こうした「異化作用」や「意味の脱臼」という戦略自体は、それだけが目指される時には、かなり退屈になってしまうということだ(それだけでは、自家中毒的なユーモアに甘んじる、よくある「サブカル的韜晦」になってしまう)。『波』と『石』の歌詞は、断じて違う。ポイントは2つあるように思う。一つは、上の伊藤の文章でもほのめかされていたように、どうやら彼らは、こうした行き方で、社会的なアクチュアリティとの回路を確保しようとしているようなのだ。これは私が補足的に解説すると実に野暮な話になってしまいそうなので、伊藤の文章や彼らへのインタビューを読んでみてほしい。もう一つ、本稿にとってより重要と思われるのは、これまでも繰り返し述べてきた内容と深く関わるポイント――非集約的かつ非物語固定的な表現――にとって、やはりその歌詞も重要な役割を果たしているようだ、という点である。

冒頭の『夏時間』の紹介でも述べた通り、我々の実生活(という言葉がやや軟弱でこそばゆく感じるなら、以下「実存」という硬質な語彙で読み替えていただいてもいいだろう)には、凡庸なフィクションがよくそうしてしまうようになにがしかの統辞的な物語構造が一貫して支配的に存在し続けているわけではない。実際は、我々にとって個別に印象深いできごとが、特に何の必然性もなくにわかに出来したり、それが続いたり、あるいは忘れられたり、忘れているつもりでもどこかでまたぞろ顔を出してくるような、ごく偶発的な空間であり、時間なのだ。仮に、そこになにがしかの固定的な物語が紡がれていくのなら、我々自身の側に存在する意味の統辞/統一への欲求や、意味の分散への恐れへの反作用によるものであるほかはない。映画において、仮にカメラが(それもまたフィクショナルかつ仮定的視点に成らざるを得ないわけだが)そのような無傾向性をもって物事を写し取るのなら(しかも、その上でなおその恣意性へと反省的に対峙し、「物語ること」の求心力を引き受けるのなら)、おそらく、やはり『夏時間』における方法論――偶発的で未統合的なシークエンスを「実際に我々が体験するように」半自動的に並べていくという手法――になるだろう。そうやって作品化された『夏時間』においても観察されたように、特にこの「半自動的な配置」は、創作物の中に「物語」を是が非でも読み取ろうと欲望する側からすると、その無文脈性が妙にユーモラスに感じられたりもするものだ。実際、映画の中で唐突に訪れる(ちょっとした理由による)姉弟喧嘩や、少年との恋の顛末や、偽物スニーカー販売に関するくだりなどは、かなり「笑え」もする。

伊藤の歌詞は、自らが述べるように「異化作用」的な美質もすぐれて持ち合わせているものだと思うわけだが、私としてはやはりそれ以上に、『夏時間』的な「半自動的な配置」に通じる魅力を感じてしまうのだった。『波』『石』における彼の歌詞は、なによりもまず短詩的であり、物事の生起を短いスパン――ちょっとしたシークエンスのレベル――ですくい取ったようなものが多い。全体を読み(聴き)通したとしても、なにがしかの「結」に向かって進んでいくダイナミズムをはっきりと取り出すのは困難だろうし、そもそもはじめからそのような「読み込み」の欲求とは無関係なところで言葉が紡がれている。「ママさんバレー」(同名曲)の風景や、「そばと新喜劇の土曜日」(「えんえい」)、「久しぶりに食べ過ぎて 吐きそうになった日」(「北欧BLACK」)といった「ユーモラス」な描写は、すべてこの実生活の中に出来しうるそれそのままの事態であり、本源的な地平から真摯に機微を描き出そうと思ったなら、これらの瞬間を(ある種のリアリスティックな詮無さとともに)配置していくほかはない。それを、例えば巧みな譜割りに落とし込むとか、不自然でない発声法と結びつけるとかを通じて芸として磨き上げるにせよ、その手前の物事の観察と収集、言語化の段にあっては、ある意味ではほとほと拍子抜けするほどに素直な方法が実践されているのだ。だが、その「素直」に達することができるのは、禅における優れた修行者がそうであるように、透徹した知性と客観性の持ち主のみだろう。確かに私の知る伊藤は、飄然としているようでいて、そういう才能を会話の端々から強く感じさせる人でもあった。その上、福岡への帰郷によってもたらされたものも大きいと思われる。たとえば「火遊び」や(こばやしがモーリン・タッカーを思わせるヴォーカルで歌う)「ラッキーG」にみられるような、過去・現在・未来を並列的に眼差す方法論を洗練させたことで、ついに作詞家として比類なき存在となった。

当然だが、これらの「成長」は、伊藤自身によるものだけでなく、あくまで(物理的に離れていようとも)バンドという一つのコミュニティがありつづけてきたからである、ということも忘れてはならないし、それは『波』『石』を一聴すればすぐに理解できるだろう。そこにまたロマンチックなバンド・ストーリー=メタ物語を読み込ませてもらうのは、(私もその一人であるが)Taiko Super Kicksのファンの自由だろう。そう、この音楽は、決して(メタ)物語を拒絶しているのではないし、聴く者たちの個別的な物語を排除するものではない。結局我々は物語へと憧れざるを得ずそれを尊く思うからこそ、彼らはなるべく丁寧に、豊かな物語が起動しだす瞬間のために備えてくれているのかもしれない。そういえば、以前呼んだ本で(今、そのタイトルと発言者がどうしても思い出せず、評者としては悶々とするほかないが、こういうつまずきも生活の実相である)、高名な小説家が、「優れた小説というのは、「劇」の幕が開く直後までを描き、劇の開始を準備するものだ」といった趣旨のことを述べていた。さながら、現在のTaiko Super Kicksは、音楽が物語を語り始める前段の踊り場を、もっとも丁寧に掃き清める(と同時にプロットの原型をそこへ配置していく)稀なる人々だとはいえないだろうか。

追記: 最後にもう一つ。その踊り場へ参加し、「物語以前」を精密に味わってみる体験は、我々がいざなにか権威主義的な「物語」への強制的な動員力に晒される時(というか、常に日々そういった形で「社会」や「政治」と対峙しているわけだが)に、粘り強く沈着な抵抗力を涵養してくれると信じている。物語が準備され、それが始まる瞬間を微視的に眼差すことができる主体は、物語の権威主義的な「悪用」に対しても絶対に敏感で居続けることができるはずだし、その欺瞞を撃てるはずだからだ。ここから先の話を続けるには、到底紙幅が足りないのだが、今後、Taiko Super Kicksがその「踊り場」から更に一歩踏み出す作品を作ってくれた暁に、論じ継いでいこうと思う。(柴崎祐二)

Text By Yuji Shibasaki


Taiko Super Kicks

波・石

LABEL : TETRA RECORDS
RELEASE DATE : 2021.10.20


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