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「40歳になった今、金を稼ぎたいとか有名になりたいとかは一切思わなくなった」
ブライト・アイズ9年ぶりの新作にみる、個としての生き方とアメリカーナの矜持

27 August 2020 | By Yasuyuki Ono

前作『The People’s Key』(2011年)から9年の時を経た10枚目のオリジナル・アルバム、という本作に付与されている文言には違和感がある。そんなに時間がたっていたのだろうか、という疑問符が頭の片隅でうまれている。それは前作から9年近くの間、バンド(・メンバー)が沈黙することなく二つの意味で止まらず、動き続けていたからこそ感じたものだろう。

第一に、本作に至るまでの間にコナー・オバーストは、ソロ・ワークとして《Nonesuch》と自身のレーベル《Team Love》から計4枚ものレコードをリリースしながら、自身がメンバーでもあるパンク・バンドのデサパレシドスでも新作を制作、記憶に新しいところでは、フィービー・ブリジャーズと共にベター・オブリビオン・コミュニティー・センターというユニットも結成している。マイク・モギスは数々の作品のプロデュース、エンジニアリングを精力的に行い、ナサニエル・ウォルコットも同様に数々のスタジオ・ワークを経験するとともに、2016年からレッド・ホット・チリ・ペッパーズのライブ/ツアー・バンド・メンバーとしての活動も行っている。

第二に、上述したようなメンバーそれぞれの制作・ライヴ活動という側面に加え、ブライト・アイズは彼らの音楽を(リアルタイムで)受け取ってきたリスナー/ミュージシャンのインスピレーションを常に刺激し続けてもいた。近年になって、ブライト・アイズより影響を受けたというミュージシャンたちが続々とシーンの中核に登場してきていることからもそれは明らかである。例示するならば、上記に挙げたフィービー・ブリジャーズはもちろん、ビッグ・シーフのエイドリアン・レンカーやザ・1975のマシュー・ヒーリーといった、近年最大級の活躍を見せているバンドのフロント・メンバーも、ブライト・アイズからの影響を受けているという。さらには、ヤング・サグやリル・ピープといった若いラッパーたちもブライト・アイズの曲をサンプリング、マック・ミラーは複数曲をカバーし、ポスト・マローンも彼らからの影響を発言している。ブライト・アイズはこのようにインディーという枠にとどまらず、自らが生きる時代を代表するバンドとして大勢のミュージシャンの音楽制作へ影響を与え続けていることを、これらのエピソードは物語っているだろう。

上述したような事象を背景の一部とし本作は生まれ出ている。サウンド面においては、フル・バンドによるオーケストラルなサウンド・プロダクションが目立つのが何よりもの特徴であるが、アコースティック・ナンバーはもちろん、サウンド・ノイズやシンセサイザー・サウンドも曲に応じて前景化し、これまでのバンドが残してきた作品群の要素を随所で明示することで、全体に広がりを感じることのできるプロダクションとなっている。さらにはフリー(レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)とジョン・セオドア(マーズ・ヴォルタなど)らのゲスト・ミュージシャンの参加によりサウンドのグルーヴがこれまで以上に下支えされている。そのように、9年ぶりに生み出された本作はバンドにとって過去へのノスタルジアで満ちているのではなく、サウンドへの挑戦心を終始感じることができるレコードとしてある。

さらに『I’m Wide Awake, It’s Morning』(2005年)、『Digital Ash in a Digital Urn』(2005年)以降に顕在化した政治性を内包したメッセージを示すバンドとしての姿は、前作『The People’s Key』(2011年)同様に、本作において明確に表出しているわけではない。市場経済や、イーグルス・オブ・デス・メタルのライヴも標的となった2015年パリ同時多発テロ事件へのアプローチなどが見られるものの、本作の大きな背景を成しているのはコナー自身に訪れた親しき人々との別れと、自身を取り巻くその環境をいかにして受け入れていくかという問題である。

そのように、これまで彼らが生み出してきたバンド・サウンドを丁寧に確認し再構築しつつ、ソングライターとしてのコナーのパーソナルな経験と社会/政治的問題設定を折衷的に内包しているのが、最新作『Down in the Weeds Where the World Once Was』であると、まずはいえるだろう。前作のリリースから経過した10年近くの期間はもちろん、それ以前の自身やバンドの歩みをも振り返りつつ、バンドにとってこれまでの集大成ともいえるという本作を構築する諸要素についてコナー・オバーストとナサニエル・ウォルコットに話を訊いた。新型コロナウィルス感染症拡大の影響によってキャンセルとなってしまったが、本来であればバンド再始動後のワールド・ツアー初日を飾るはずだった3月の東京公演に触れながら、会話は始まっていった。
(インタビュー・文/尾野泰幸、協力/岡村詩野、通訳/原口美穂)

Interview with Conor Oberst, Nathaniel Walcott

――バンドの再始動本当におめでとうございます。あなたたちが作る新しい音楽を聴くこと、ライヴを観ることが叶うことを本当に嬉しく思っています。しかしながら3月に、ここ日本で予定されておりワールド・ツアー初日となるはずだった東京公演はCOVID-19の影響で中止となってしまいました。LA、ニューヨークという北米二都市に加えて、なぜアジアの日本という都市が再始動となるライブの初日として選ばれたのでしょうか?

Conor Oberst (以下、C):数ヶ月の我慢だと思ったのに、こんなに長く続くことになるなんてすごいフラストレーションだよ。せめて来年の夏くらいまでには再開できたらいいんだけど。日本を最初に選んだのは、大好きな国だけどしばらく行けていなかったから。すごくエキサイティングだし、自分たちが住んでる国と全然違うから、ニューヨークとかLAみたいに慣れたところじゃないのもいいと思ったんだよね。個人的にも好きだから、ショーの日の数日前に行って探索する予定だったんだけど。

Nathaniel Walcott(以下、N):レッド・ホット・チリ・ペッパーズと数年前にツアーをした時に、ベビーメタルがオープニング・アクトだったことがあってさ。1、2ヶ月一緒の時があって、彼女たちと友達になったんだ。僕がベビーメタルみたいな格好をしてる写真も残ってる(笑)。彼女たちのツアマネやクルーとも仲良くなって、ツアマネの女性がブライト・アイズの東京でのショーのためにバンドのラインナップを考えたりしてくれていたんだよ。彼らと共演するのも楽しみなんだ。次回になってしまったけどね。

――さて、前作から本作までは、10年近くもの間が空いています。このタイミングでバンドの再始動を決めた理由はいったいどのようなものだったのでしょうか?

C:2017年の12月にLAでやったホリデー・パーティーが、このアルバムの始まりなんだ。ネイト(ナサニエル)の家のパーティーで、僕も参加したんだけど、そこでなぜかポロっと、「そろそろ、またレコードを作る時期じゃないかな」って言っちゃったんだよ(笑)。すると、ネイトもそれに乗ってきて、その時オマハにいたマイクに電話をかけた。そしたらマイクも「いいね!」って言ってくれて、2、3日後にはすでに曲を書き始めたんだ。レコーディングは2018年の春から始まった。それで、2019年に入ってから他のミュージシャンたちを招いて本格的なレコーディングをしたんだ。

――なぜそのタイミングで、「レコードをまた作る時期」だと思ったのでしょうか?

N:他のプロジェクトでの色々な経験を経て、次のレコードを作るのに十分な世界観を培うことが出来ていたからだと思う。前回のレコードの時とは違う新しいエナジー、表現したい新しい像が出来上がっていたんだよ。

――加えて、前作からの約10年間はメンバーそれぞれがソロ・ワークや、プロデュース・ワーク、ライヴ・ツアーなどを経験し自らの活動を継続的に行ってきた時期だと思います。それらの経験は、本作にどのような形で結実しているのでしょうか?

C:もちろん全ての経験が作品に影響してる。様々なミュージシャンたちと共に作業してきたから、その度に何かを学ぶし、それを自分と一緒に持ち帰ってきた。それは沢山あるし、無意識な部分もあるからピンポイントで何を学んだか具体的には話せないけど、9年間の経験が活かされていることだけは確かだね。

N:いい意味で、ツアーに出ていない時期が長かったぶん、個人的にはそこからいつもとは違うエナジーを得ることができた気がするね。

――さらにいえば、あなたたちはリベラルな視点から社会や政治とどのように向き合うかを真摯に考え、リスナーへと問いかけてきたバンドだと私は理解しています。その意味において、本作であなたたちは現在のどのような社会/政治/経済的背景を考慮し、私たちへとどのようなかたちで、どのようなメッセージを投げかけようとしているのでしょうか? 本作においては、過剰で直接的な政治性を持たせないようにしているという話も他誌にてされていたことは理解しています。ただし、例えば本作の先行曲として発表された「Mariana Trench」といった曲には市場経済に対するあなたたちの批判的メッセージが込められているように感じてしまいます。

C:今回のアルバムは、そこまで政治的ではない。でもブライト・アイズの曲は自分たちが思うこと、自分たちの中にあるものがそのまま歌われているから、政治や社会が自分たちの生活に影響したり、それについて考えることがあれば、もちろんその要素は曲に出てくる。特に今の時代、トランプ政権のアメリカに住んでるわけだから、それが影響しないわけがないし、何も思わないわけがない。でも、それを直接的にフォーカスを置いて書くことは避けたいんだ。トランプのことなんて曲にして残したくないし、彼のために曲ができるなんて嫌だし。ただ無視して、なかったことにしたい。まあ確かに「Mariana Trench」にはそういう社会的なメッセージも入っていたりするけど、大抵の場合内容は曲によって違うし、それは全て自分たちの身近にある出来事やフィーリングについてだね。

N:この表現が的確かはわからないけど、一つの玉ねぎにもたくさんの層があるように、僕たちの曲はその層の数々なんだ。

――あるインタビュー記事では、本作のテーマは「個人的なものからマクロなものまでの大小にわたる喪失、希望、愛」であり、「個人的な世界の見方が渦巻くレコードになっている」と語ってらっしゃいます。直接的な政治性を排除して、それらをテーマを本作が選び取ることになった理由、そしてそのテーマがどのようなかたちで本作に内包されているのか教えてください。

C:意識的にそれをテーマとしたんじゃなくて、自然にそのテーマに導かれていったんだ。他の選択肢はなかったんだよ。曲の中では、自分の8年にわたる結婚生活の終わり、数年前の兄弟の死、友人の死に基づいて書かれた部分もあるし、逆にそこから生まれる希望みたいなものについても歌ってる。人間は皆内容は異なっていても困難と希望をそれぞれに経験するものだし、ギブアップと継続の間で戦う時がある。このアルバムはそれについて書かれているんだ。聴いてくれた人が、この作品から戦う勇気をもらってくれたらいいなと思う。

N:そうだね。このアルバムで表現されているのはそのコントラスト。悲しみと希望、対極と共存、そして戦い乗り越えるための力。それが本作の内容だと思う。

C:つまり、人生における二重性だ。経験の内容は皆それぞれ違っても、アルバムを聴いてリスナーが自分の経験と曲を結びつけ、繋がりを感じてくれたらそれが一番だね。

――そのような人生におけるコナーのパーソナルな経験が刻印されている本作ですが、オープニング・トラックの「Pageturner’s Rag」では、コナーの前妻であるCorina Figueroa Escamillaとコナーの母親がスポークン・ワードをする形で登場します。彼女らの登場から本作がスタートしていくことは、本作におけるどのような意味を表象しているのでしょうか。

C:《Pageturner》っていう10年前くらいにオープンしたバーがオマハにあるんだけど、毎週木曜の夜に自分の友達がそこでラグタイム音楽を演奏するんだ。ラグタイムは、自分たちにとってもノスタルジックな幸せの場所みたいな音楽だから、自分たちに一曲作らせて、そこでレコーディングさせてくれないかと友達に頼んだことがあった。そして、ある晩バーを閉めて、マイクと楽器をセットして、自分たちの友人だけを招いたんだよね。そしてライヴ・ショーをやる前に、コリーナが担当した演奏前のバンド紹介を録音したんだ。また、違う時にも同じバーに行ったんだけど、その時はコリーナと僕の母親の3人でマジックマッシュルームをやってるときの会話を僕が3時間くらい録音してた(笑)。それで、その2つのレコーディングを混ぜ合わせてあのトラックを作ったんだ。そんな風に、二人の会話をレコードに入れたのは、さっき言ったような自分の人生における二重性を表現するのにうってつけだと思ったから。さらに、コリーナのバンド紹介の部分を入れたのは、まるでショーの始まりみたいにレコードへの注目を引くためだったね。

N:さらにいうと、これまでのアルバムもずっと同じようなスタートだったから、普通のスタートだと逆に変な感じがするしね。

――サウンドへと目を向ければ、本作のサウンド・プロダクションは、例えばシングル曲の「One and Done」や「Persona Non Grata」から、アルバムの最終曲「Comet Song」に至るまでオーケストラルで荘厳かつメランコリックな感情をも想起させるサウンド・プロダクションによって特徴づけられていると思います。このようなプロダクションのアイデアにはどのような理由・背景があるのでしょうか。

N:まず、今回のアルバムでは、これまでのブライト・アイズのサウンドを総括するようなサウンドを作りたいというのがアイディアだったんだ。それを形にしていくうちに、サウンドがよりひとつの集合体のようなサウンドになっていった。要するに、自分たちのこれまでのサウンドをアップグレードして2020年ヴァージョンにした結果が本作のサウンドなんだ。自分たちが既に作ったサウンドに、これまでに培った新しい視点や大局観が取り入れられているということ。制作に対しては、他の音楽から影響を受けてこれまでと違うサウンドを作ろうというよりは、アップグレードという意識の方が高かったね。あと、オーケストラ・サウンドは、僕が個人的に好きで、それをやりたかったというのもある。オーケストラはLAのスタジオで皆で一緒にレコーディングしたんだけど、本当にエキサイティングで楽しかった。今、このパンデミックの状況では出来ないことだよね。ミュージシャンたち自身も演奏を楽しめる。それがオーケストラなんだ。そこでは、できるだけ美しくて奇妙なサウンドを表現した。曲によっては美しさの中にダークなトーンも入れて、さっきコナーも言ったような二重性、双極性を表現したんだ。

――なるほど。さらには、フォーク、カントリー色を武器にダイナミックにロック・バンド・サウンドを展開させていた2000年代半ば頃の作品より、今作は音響的な広がりや鳴りを重要視したような曲も多い印象です。ウォルコットによるオーケストラ・アレンジは『Cassadaga』(2006年)の頃のようでもあるし、エンジニア兼任でもあるマイク・モギスらしいアコースティック・ギターの繊細な音の拾い方はバンドの初期さながらです。先ほどコナーも言った通り、今作はブライト・アイズの集大成的側面があると思うのですが、改めてこの新作は、ブライト・アイズの歴史の中で、どのような音楽的な位置付けにある作品なのでしょうか。

C:これまでの自分たちのサウンドへのノスタルジアを活用し、新しい、現在のブライト・アイズ・サウンドを作り出したのがこのレコードだね。歌詞の内容はもちろんそうだし、ブライトアイズの歴史を現在の視点から見てる、そんな感じかな。

N:バンドのお馴染みとなったサウンドとアプローチの中に、今自分たちが向き合っているものを取り入れて出来たのが今回のアルバム。そういう意味で、今回は、“こういうサウンドを作る” という特別な設定や制限がなくて、サウンドにのびしろがあって、自由だった。例えば、もしサウンドを壮大にしたければ、オーケストラに限らず、聖歌隊を使うことも、SFっぽくすることもできたし、オーケストラを使うにしても、そこでどの楽器を使うかは自由に選べた。そんな風に、皆のアイディアを次々に取り入れて試すことが出来たのはよかったね。これまでの慣れたサウンドを作る心地よさに変化という興奮が加わって、本当に楽しかったんだ。

――気がついたらコナーも今年40歳、15歳の時に結成したブライト・アイズはもう四半世紀ものキャリアとなりました。民主党への投票を呼びかける《Vote For Change Tour》に若手代表として参加したのも15年ほど前のことです。この25年ものキャリアを振り返ってみて、どういう25年だったと思いますか?

C:長いよな(笑)。若手代表だったのが、もう105歳みたいな気分(笑)。

N:いま考えてみると変な感じがするよ。ずっと様々なプロジェクトをやってきたから、一本の線が昔からずっと続いているという感覚があまりない部分もあるし、でも全てが繋がっているような感覚もある。自分の中ではそれぞれのプロジェクトが断片的に感じるけど、それは全部同じタイムラインで起こっていることなんだよな。色々なことをやっていると、時間の流れってすごく不思議に感じる。

C:実は2015年から、レコード自体は毎年作ってるんだよね。デサパレシドスのレコードもそうだし、ソロ・レコードもそうだし。ジム・ジェームズやフィービー・ブリジャーズともコラボしたり。パンク、インディー・ロック、フォークとジャンルも様々。だから、25年ずっと同じ何かを続けてるって感覚自体があまりないね。皆が気に入ってくれるものを作る、皆の期待に応えるというよりは、自分が好きなものを作り続けてきた25年だったなと思う。やっぱり人の意見を心配していたら、良いものは作れないからね。これ、日本ではどう言われてるか知らないけど、アメリカでは、大きな土地を持っていて、その土地を維持するコツは、色んな作物を育てることだと言われてる。そこでずっと同じ植物を育てても、永遠に同じようには育たないって意味なんだ。

N:再生させるためには、違う植物も育てなければいけないってことだね。作物のクオリティを保つために。

C:そうそう。そうやって色んな土や栄養がブレンドされることで、より良い作物が育つ。僕が試みているのはそれなんだ。

――特にコナーは、アメリカの歴史を掘り下げる学究的姿勢も持っています。とりわけ《Nonesuch》からリリースしているソロ・ワークにはあなたのルーツ・ディガーとしての横顔が強く刻まれている印象です。今のあなたの活動は、ハリー・スミスが蒐集した『Anthology Of American Folk Music』(1952年)に収録されている作品群の後継的な側面もあるようにも感じますが、あなたはアメリカの音楽史を継承しているという自覚はあるといえるでしょうか?

C:多分、僕はアメリカ人だから、自覚していなくても自然とそうしているんだと思う。ただ、個人的には、あまり意識してそれをしようとはしてない。マムフォード&サンズとか、なんとかブラザーズみたいなカントリーをコピーしてるバンドってイライラするんだよ(笑)。「アメリカーナ」のふりをしてるっていうか。カントリーを守ろうとしてるんじゃなくて、着てるんだ。本物のカントリーやフォークのバンドは、着飾ってない。僕の友達には「真の」「アメリカーナ」ミュージシャン、バンドが沢山いるけど、みんなマムフォード&サンズみたいなイギリスの最悪なフォーク・バンドらに比べて有名でもなければ金持ちでもない。みんな純粋にその音楽を楽しんで、受け継ぎ、伝えようとしているんだよね。着飾ってないと言ってもいいと思う。もちろん僕はボブ・ディランもニール・ヤングも大好きだけど、伝えるなら、あれをそのままピュアに伝えるべきだと思うから、僕の気持ちは複雑。なぜなら僕は、中途半端にスタイルを継承している悪い例なんだ(笑)。破れたジーンスを履いて、変なシャツを着て、パンクロックっぽい「アメリカーナ」なんて我ながらどうかと思う(笑)。

N:でも、アメリカの音楽っていう定義は難しいよね。例えばエルヴィスはブラック・アメリカン・ミュージックを完全に引用しているし、ビートルズやローリング・ストーンズだってそう。あの当時からオリジナルなんて存在しないんだよ。

C:それには100,000回賛成!

N:まあ、自分たちが好きなミュージシャンだって、どこから影響を受けているかわからないよな。

C:ああ、言ってることはわかるよ。でも僕が話してるのはアホっぽい帽子をかぶって、「アメリカの音楽」を敢えて強調している奴らの話。フリをしてる奴らの話さ。

N:今の時代、こういうトピックは特に難しいよね。意見は様々だし、色々な解釈があるからさ。

――そうですね。実は以前、私たち《TURN》の編集長は2005年にあなたたちが《Vote For Change Tour》で話題になった数ヶ月後、コナーとマイクをオマハに訪ね、取材をしています。その際にコナーは「人生を綴ることは政治的でもある。ボブ・ディランやニール・ヤングの作品にそう倣った。僕もいつかそういうソングライターになれればと思う」と話してくれていたそうです。つまり、それは「ポリティカルであることとリリカルであることは同一である」という素晴らしい解釈なのですが、確かに今のコナーおよびブライト・アイズは、今のアメリカの音楽の柱になっているディランやニールの域に達しているように思えます。今、あれから15年経過し、コナーの目標はどういう存在感のある音楽家に対して向けられているといえるでしょうか?

C:それは最高の言葉。本当にありがとう。これ、マイナスに聞こえるかもしれないから誤解しないでほしいんだけど、40歳になった今、僕はもう何かを目指すという気持ちにはあまりならない。金を稼ぎたいとか、有名になりたいとか、そういうことは一切思わなくなった。自分自身に正直で、自分自身にとって意味のあることをしていればそれが一番と考えるようになったんだ。周りのことを気にしなくなったんだよな。それを気にしても意味がないことに気づいたから。でも、唯一気にかけているのは、生活に十分なお金を稼ぎながら今の生活をなるだけ長く続けていくことと、それを長く続けていくために必要以上の大金や名声を求めるのではなく自分自身への満足を第一として忘れないことだね。ニール・ヤングやボブ・ディランは、80代になってもまだ音楽をやってる。僕はそこを目指したいし、それが出来ていれば、自分はすごくハッピーな男だと思う。彼らが作るレコードの全てが好きってわけじゃないけど(笑)。彼らの生き方、活動の続け方は最高。自分が80代になった時、彼らみたいになれてたらいいなと思うね。

――ところで、私たち《TURN》では「Now Our Minds Are in LA」と銘打ち、近年のLAという磁場が生み出した新たなエネルギーや可能性、クリエイティヴィティを持った音楽を紹介しています。その中にはブレイク・ミルズやフィービー・ブリジャーズ、ハイム、ヘイゼル・イングリッシュ、パフューム・ジーニアスなどがいます。そして、コナーやナイトもLAに家を持っていると聞いています。あなたたちが、グローバルに活動するバンドであることはもちろん知っていますが、だからこそ浮かび上がるローカリティの特性というものもまた存在すると私たちは考えるのですが、前作から本作に至るまでの10年近い間で、あなた方がLAもしくは、故郷のオマハなどローカルな音楽環境から得たものと、それがもし本作に与えている影響があればおしえてください。

C:LAとオマハは全然違うかな。LAは東京みたいに色々なことがたくさん起きているし、オマハはやっぱり田舎で、人のタイプもLAとオマハでは違うね。今回のレコードは半分をLA、半分をオマハでレコーディングしてる。だから、ちょうどその2箇所の影響が半々の割合で出ているんじゃないかな。だからといってそれが聴き取れるかっていったらわからないけど(笑)。自分たちにとっては、やはりマインドセットの面で違いがある。LAはやっぱり緊張感があるし、ミュージシャンのメンツもすごくて詰まりに詰まった感じ。一方でオマハはもっとリラックスしてる。LAの方はミュージシャンの数もスタジオの数もすごいし、熱があるんだよね。オマハでは裏庭にスタジオを作ってて、すごく落ち着いてるんだ。ともかく、今は早く日本に行けることを願ってる! 実現したら最高だな。

N:僕たちは日本が大好きだからね。また日本に行くことが待ちきれないよ!
<了>


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Bright Eyes

Down In The Weeds, Where The World Once Was

LABEL : Dead Oceans / Big Nothing
RELEASE DATE : 2020.08.21


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Text By Yasuyuki Ono

Photo By Shawn Brackbill

Interpretation By Miho Haraguchi

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